阿部一家之者共権兵衛命乞越天祐和尚へ内々ニ願置叓
偖も権兵衛は述懐の至り、よしなき事を仕出し今更後悔すといへ共其甲斐
の程も尤とそ聞へける
なし、妻子兄弟嘆の程も尤とそ聞へける、阿部弥一右衛門ニ五人の男子有、嫡子権兵衛・次男弥
五兵衛・市太夫・五太夫・七之允也 公の御機嫌以の外悪しかりけれハ権兵衛事
薄氷を踏思ひをなし、妻子兄弟一日も安き心なく気遣ひの餘り其頃
天祐和尚の法事ニ付下向有りけるに、密ニ権兵衛妻子兄弟嘆きけるニ今
度権兵衛述懐の余りよしなき事を仕 上の御咎め甚以重く禁籠ニ及
候、此上いか様の御仕置ニあわんも難計何卒御仕置の筋御沙汰もあらハ偏に助
命の願ひを頼ミける、天祐和尚も権兵衛か主恩を忘れ上を不恐不届
なれども、跡の親類の嘆き哀れに思ひ給ひけれハもし権兵衛身命に
御たゝりあらは其時愚僧助命の願をなし弟子共なすへき也、気遣う事勿れ
と頼母敷宣ひけれハ少ハ心も晴やかに天祐和尚の命乞を頼ミにして霊仏
霊社に祈願して権兵衛か身上恙なかれと千々の祈りをなしけれ共
権兵衛の不忠祈るにしるしなく阿部一家滅亡に及ぬ、天祐和尚も此事を
心にこめて何卒折を見合せ、助命の願ひも有度其事となく逗留し
徒に月日を過されけれ共 光尚公も天祐和尚の逗留ハもし権兵衛御仕
置もあらハ助命の願もやと御賢察有けれハ御仕置の筋権兵衛事ニ於ハ 12
制の限と成て重て何の御沙汰もなし、かゝる不忠の者自然助命ありては
御政道も立かたく亦大寺の住職一跡にもかへて助命願有てハむつかしくいかゝ成
と思召けるも御尤なれ 光尚公ハ和尚御遁なさる折からも何とそ折
をもうかゝひ被申けれ共、右の賢慮なりけれハ少も左様の色見へたる時は
四方山の御咄に成つて権兵衛の事出さるついてなし、天祐和尚も心斗ハ
廣大の利益おと思ハけれ共、唯空敷過されける、官寺の住職久
久逗留寺務繁多なれハ無是非帰京ニ及ハれける、是を聞て阿部
一家の者共力を落し願も空敷そなりける
阿部権兵衛御仕置之叓 付兄弟共屋敷へ取籠事
阿部一家の者天祐和尚の頼母敷宣ひし言葉を心に懸けて権兵衛か助命
の願を待けるに、案に相違して空敷帰京有けれハ、頼も尽て一家の
浮沈此時也とかたつを呑て居たりけるに、権兵衛上を不憚の仕方其
罪難遁井手ノ口に引出され縛首をそ討(れ)ける、己の心ゟとハ云乍ら是非
なき次第也、妻子の嘆き云に言葉なし、於爰阿部弥五兵衛を始として相残
兄弟共嘆の涙ニ怒を含ミ、権兵衛上を不恐仕形御咎の趣ハ奉至極と
いへ共、親弥一右衛門数ならぬ共先君へ對し殉死の一人也、御仕置に被仰付とも
侍の作法に被仰付ニおいてハ上に對し御恨ミを可申上様なし、然るに盗賊様
のことく諸人の眼前白昼に縛首を刎られし事無御情御仕置也、此上は
残る兄弟共とても其の侭ニては被立置まし、譬ひ無御構被立置共本家の
跡縛首を討たれ何の面目有てか、忠勤を励ミ朋友ニも面を向んと憤を含
て兄弟権兵衛屋敷ニ一所ニ取籠る、此事達 尊聴なは定て討手向
へし、さらば去年以来の鬱憤を散し仕手の面々と花々敷勝負を決 13
し、勢尽は尋常に切腹せんと門戸を閉て居たるける
竹内数馬高見権右衛門其外之面々阿部兄弟討手被仰付叓
去程に阿部弥五兵衛を始として同市太夫同五太夫同七之允等兄弟己か屋
敷ニ引籠り、上を奉背由沙汰有けれハ、屋鋪の様躰見て参るへき由蒙
仰外聞横目の面々追々被差越、彼守候やしきの様躰沙汰の通りニ相違
なく覚悟を極めし躰ニて居候由委細及言上けれハ 光尚公被
聞召上、不届の奴原を急度御誅伐有へきよし御沙汰有て仕手の面
面ニを被 仰付、先表門ハ御側頭竹内数馬長政知行千百五拾石御鉄炮三十
挺の頭也、并副頭添島九兵衛百石野村庄兵衛百石役十石御加増、裏門ハ高見権右衛門
重政五百石後千石被成御側物頭竹内数馬同役三十挺頭也、副頭ニハ千場作兵衛
百石後五十石御加増御目附畑十太夫、阿部屋敷近隣の輩ハ當番たり共在宿して
銘々屋敷を相守り火災を慎ミ御下知なきに仕手ニあらすしてかの屋敷へ
猥に馳入へからす、落人等無之様ニ専ら心を付無油断諸事可相心得との
厳重の御沙汰有、別而向屋敷両隣りの面々ハ御下知の趣を堅く相守、
尤物見とし彼屋敷ニ参る者堅く御禁止也、出田宮内少・松山権兵衛等ハ
組を引連れ阿部屋鋪廻りの警固夜前ゟ夜廻り被仰付無怠慢廻り
ける、及深更侍分之者と見へて面を深く隠し塀を越て忍ひ出る折
節丸山三之允と云廻り役の者見合ひ早速討留る、手首尾宜敷達
尊聴ニ御褒美有とかや、阿部兄弟の者共明日ハ打手向ふ由聞へけれは
兼て覚悟の前なれハ、屋鋪内掃除残る所なく仕舞見苦敷物等ハ
焼捨て本日の暁ハ一族の老若男女打寄て最期の酒宴をなし囃子を
しけるが、酒宴囃子果て銘々銘々妻子幼児ハ不残刺殺し、屋敷内ニ 14
穴を掘死骸を一所ニ埋め、夫ゟ兄弟四人共恩顧の郎従共一所相集
鐘鞁を鳴し高念佛を唱へて夜の明るをそ待ける
又云阿部屋鋪ハ山崎斎藤又(助・勘)太夫屋敷也、阿部弥一右衛門千石余ニ身躰
嫡子権兵衛・五太夫・市太夫も原城の働御褒美新知二百石宛被下
ける故大形二千石ニ近き身上也、兄弟何も一所ニ居ける故人数も多
かりけると也、向屋敷ハ山中又左衛門・南隣ハ栖本又七郎・外山源左衛門
平野三郎兵衛屋敷也、其外之屋敷ハ不記之
(注頭)又曰丸山三之允ハ佐分利加左衛門組之足軽也、原城ニても心馳有て
忠利公御目見申上御言葉の御褒美あり、大筒打丸山一平か先祖也