津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■興津才右衛門天の罰め

2014-06-24 11:14:22 | 人物

 忠興公に殉死した興津弥五右衛門の子・才右衛門は、元禄二年六月廿二日に閉門・知行召上を仰せ付けられたが、堀内傳右衛門の「旦夕覺書」にその理由を含めて書かれている。
そして傳右衛門は「天の罰め」と書き捨てている。

興津才右衛門は今の彌五右衛門父にて候、若き時より御家中一番の口利、細川丹後殿なと初として御一門中御家老中御懇比に候 妙應院様(綱利)・若狭守様(綱利弟・利重)も御懇比にて御直にも被召仕愚意を申上候程の者にて何そと申せは才右衛門被召仕候、戸越御屋敷の内廣過たる御沙汰江戸ゟ申来御せはめ被成候時、才右衛門江戸へ被遣借銀願申候、惣銀所の御目附御中小姓末松勘助に逢申今度願上申候銀高にてもへし被申候はゝ誓言にて御断申江戸御断可申由を勘助聞故、其時分氏家甚左衛門殿御奉行上野故勘助右才右衛門誓言にて申候事内意申如願埒明申候、才右衛門方々にて埒明たる自満咄の沙汰のみおれは合點せぬ惣躰つもりは調物の代過不足もなくて不叶事願の銀高不足候はゝ重ても成間敷物にてなく心まゝ誓言唯今才右衛門は御家中一人の口聞上にも能思召故、御家中歴々迄譽被申候由おれは今度の誓文にて才右衛門を夫程には思はぬと被申候同名文左衛門は別て咄被申拙者も折々出合申候、或時才右衛門十左衛門殿(山名氏)へ参候て御免被成候へとて其儘羽織むき申候、在宅にて着仕候うしろに大紋付たる帷子着いたし今日舎人殿奥方気色見廻りに参候大勢の見廻衆就夫羽織借用仕候て参候、惣躰在宅故勘略仕御寺参りの上下帷子の外には持不申なとゝ申候故、十左衛門殿御申候はいかにも御理屈承候併先日そなたの庭を見申候、大石を澤山に御求と見申候定て銀子出し御調はよもや有間敷候、百姓共に持せ取寄被申候共大勢に定て粮米は出し可被申候左様成つもりにて帷子布の羽織は出来可申候、ソナタの數寄には目か見へぬと云ふたれは才右衛門一言出す別の咄にて歸り候と拙者へ御咄被成候、いか様才右衛門何の角のとしかり申候へとも亦唯者にては無御座と申候、舎人殿にはひたしくは不参候、才右衛門は學好にて五経も自筆にて書たると承候、色々才右衛門か咄多く候、右之通に申たる者にて信少なく發明口きゝの名斗と存候、御鉄炮三十挺御預沼田小兵衛殿組にて其時分何か御用にて被召出候へは私儀今度御鉄炮御加増殊に一番備の小兵衛組に被 仰付難有由申候へは一番二番は存まし推参成る儀と御機嫌そこね申なと沙汰仕候、藤田助之進父子死骸片つけ申刻も北關に被遣候何そと申は被召仕候、其後御鉄炮頭衆と打寄足輕共鉄炮稽古の儀は昔は不斷隙々にはうたせ候や其時分は御鷹野多く三月朔日か九月朔日か定り年始の打初ゟ外には打事は成不申候、唯今も其通と存候、然る處に仲間とせり合有無に才右衛門は打せ可申と申たる儀御吟味被成才右衛門にきひ敷閉門被 仰付候て知行被召上唯今之彌五右衛門に貮百石祖父跡と被 仰付候、才右衛門は百石加増にて三百石被下候右の仕合にて病死仕候、つく/\存候へは中間申合時節を待たる稽古させ候はゝ不残御用に立可申候、才右衛門三拾挺計上手に成候ても差ての事は有間敷候、我利口たて斗にて中間にすくれたると自満斗にて信實の忠とは不存候、天罰と存候、才右衛門程成る者も又出来不申との噂のみに御座候つる、然れ共右の様子にて御意に叶不申は御直にも申上候、推参者と御意江戸にて若狭守様にも先御代之事のみ申時節しらぬ我満者にて何哉覧申上候得はおれも 真源院様御子なとゝ以の外御腹立られ候、わけは覺不申候、真實の忠ならは鉄炮稽古も中間申合候て致延引才右衛門果候ても跡々迄も御用に立様に仕事に候、拙者承候てもいくらも不實の事と存事有之候へ共事永くかゝれ不申候、兎角利口發明も不實にては天の罰めに逢申候、兎角入被申たる儀尤に存書置候 


上の文章に有る「おれも 真源院様御子・・・」という言葉は何方がが発せられたものであろうか、怒りの程が察せられる。
翌三年は妙解院様の五十回忌であり、三月にはその故を以て閉門は解かれ、息弥五右衛門に貮百石が与えられた。(御花畑御奉行所日記抄出)
因みに本妙寺(東光院?)にある興津家の墓石には九曜の紋が穿かれている。(・・・・・・・) 

 

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