「旦夕覺書」でおなじみの堀内傳右衛門は、大事な嫡子を亡くし養子を迎えているが、その顛末が旦夕覺書(肥後文献叢書第四巻 p194)に書かれている。
拙者江戸詰の時廿五年以前に熊本より状参り、一子土之進果候由申来、(山名)十左衛門殿も自筆にて此節忠義の出候所とて、平野九郎右
衛門方へ被仰遣候由にて、拙者居申町屋へ態と参被申聞候、本よりあきれ居候へとも其の三四十日前 恵雲院様七月廿一日御遠行被遊候
土之進は八月十六日にて間もなく覺 恵雲院様の時力を落し、食事給候事土之進事承申候時分に心中にて引くらへ見申候に、神以土之進時
には萬事軽く覺申候故、扨は未奉公勤申にさのみ草臥不申事と日本の神心にてためし申候 御前にも被聞召、江村節斎に御意被成候は最早
唯今より出来たる子は傳右衛門為には成ましく思召候間、養子を取持させ候へとの御意の旨にて、拙宅へ節斎被参候、扨々難有仕合涙を流 し申候は、私儀如御存知歩行より段々御取立被下、子果候とて又養子を仕候事は先祖の儀を存、名字致断絶は不幸と承及申候、如御存知
三盛事親の名迄付居申又喜左衛門も私同前に新知被為拝領居申候、私儀は以段々御恩兄共より重く蒙り存る様御奉公不仕上、養子と申
事ハ老父草の陰にても心に叶申間敷と申候へは、節斎いかにも拙者申趣も尤もに存候、然共兼ての御意に御代に被召仕候衆も代々にて何も
跡の断絶仕候事不便に思召、就中當御代に御取立の衆は尚以不便に被思召候との内々御意にて候、拙者儀は別而御重恩との仰に候へは
右の御意の筋、養子被成間敷との儀は御心に叶ひ申間敷と被申候、誠に左様に兼て御意初て承申候、御家中一同に承申難有に奉存候、然
らは乍御六ケ敷御自筆にて熊本に居申候同名中に連紙にて右の趣被仰遣可被下候、私手前よりは少遠慮に存候儀も御座候と申候へは、扨
々御得心別て大慶仕候、御飛脚立候はゝ御同名方へ可申遣とて則息悰陸に書せ同名中に被申入候、角入初として扨々難有仕合御取持被下
候へと返事も見せ被申候て、しからは養子に誰をかと其時工夫仕候處に、村井源兵衛参被申候は、此間節斎と拙者養子の噂申事に候、差當
り堀内中に無之様に存候、たとへ有之共今度の事は亡妻存生の内にて別て力を落し可被申候、左候へは御同名のうちにたとへ心當有之共
御内方の為と存寄候へは式は弟か甥か、兎角其心寄可然と申候、拙者いかにも尤と存幸に妻の弟有之候、是を願上可申とて其後は熊本へ
も申遣取遣済、其年極月廿八日養子如願被仰出候、ケ様に節斎に申候儀も前々老父咄長谷川久兵衛殿實子被果候て跡養子の事幸孫有之
候取持可申と筑後殿御申候時断申候、筑後殿委細直に御聞承置候、尤成事と感じ被申然らは拙者方より願可申とて久兵衛殿に構はず御願
被成候事兼々承候、日本の神其の時長谷川殿存たるにて無之候へども、老父心に拙者存寄叶可申と壹筋に奉存候へは、右の通恭次第三悦
養子候時弾蔵口上書のことく、拙者養子同名中承難被存返事節斎見せ申候、右の熊本へ連状を被申候を三盛なとにも尋候へども何方に有
之哉見出し不被申候、此後にも自然出申候はゝ傳次に御渡し可有候
この旦夕覺書は、傳右衛門八十歳の時(享保九年-1724)に書かれている。文頭に「廿五年以前」とあるから働き盛りの五十五歳、元禄十二・三年のことであろうか。赤穂浪士の討入りが元禄十五年十二月、彼らの切腹が十六年二月だが、この間の細川家御預かりの事情が「堀内傳右衛門覚書」として残されており、わずか三年ばかり前に子息を亡くしていることに成る。そんな時期の養子話である。