蓑田勝彦氏の論考「天保期熊本藩農村の経済力 : 生産力は二百万石以上、貢租はその1/4」は、幕末にかけての肥後藩の真の生産力を、諸資料から具体的な数字をあげて実証した大変説得力のあるものである。維新による新政を美化するための貧農史観もそろそろお蔵入りを願わなければならない。
熊本市都市政策研究所が発刊したこの「熊本市都市形成史図集」は、当初発行部数が少なくすぐ売り切れてしまったが再販された。
この図集は「明治22年から終戦直後の昭和22年に至る16葉の地図と解説文で構成」されており、熊本市の都市形成の移りを知ることが出来る。手元に置きたい史料である。
熊本市役所・1階市政情報プラザで販売されている。一部800円
一、平太左衛門殿功労の儀は、御國中は不及申、既に公邊にも相聞、諦了公御代台命の旨も有之候、此
頃江戸詰の節、天下に名高き白川侯、御目見仰付らる中略又一歳大坂にて御用達彼是馳走の結構あり、
長田よりは肩衣を所望致し候へば、直に其旨に任せられ、扨長田申けるは、右道具の内、何ぞ差上度
望も候はゞ大慶なりと、頻に申されければ、さし寄近く取飾り有之候茶器の内、此品申受べしとて、持
返に相成候、然處右の品は至て珍しき器の由にて、長田も格別秘蔵の物にて、價も二千圓位は致す由
なれども、堀殿は左迄の品物とも思はれず、不案内にて所望致され、跡達て右等の様子も承はられ、
殊の外我折にて候へども、先其儘持下り、又々大阪へ登られ候節、右の品を返し申され、御國許段
々茶好みの人も有之見せ候へば、珍しき品物にて、何れも褒申候、乍恐餘り上品に候へば、中々
國許にての茶湯抔の席に飾候器にて無之、左候へば所持致し候も無用の儀と存じ、此節持せ越申候
間、先暫返却致し置候段申越し候、戻し振殊の外立派に有之たる由、其頃致穪美申候 鎌田氏雑録
一、上略 平太左衛門殿、寛政五年四月本庄の隠宅にて、病症危篤に至り、親戚打寄、看病の折から、夜陰
至り、隠宅の下道を、大勢聲高く唄ひわめく者あり、折しも四月の暗にて、あたり近き市中の若者
男女大勢蛍狩の歸るさにぞ有ける、思ひ/\に唄ひわめき、大勢にて罵りけるが、看病の床に喧
く響きければ、詰居ける浅尾とかや云けるが、心なき若者共が戯を、かく危篤の病床、殊更名高き尊老
の病にて、歴々心をひそめ、看病も有けるを、如何に下賤の者とて、斯く仰山に唄ひわめくものかと、
ひそ/\咄散けるを、重き枕より屹と聞咎られ、如何に女共左な申なよ、此一両年一統不作にて、
何方もひそまりかゞみ、のどやかなる咄もなく、潜り居ける其中漸く今年此春作少し熟しける故に
や、今の如く快く唄ひ歩て樂ものも有者を、嬉しき事と歓びこそするべきに、此隠居が病の苦とて、
何の遠慮の有べき、又遠慮すべきものにもあらず、かまへて左様の事申すなと、かたの如く戒められ
けるとぞ、今はの際迄斯の如く國中に身を委ね、心を留められける志の程計るべし 下略○行状の一本を抜す
一、公平太左衛門を御見込遊ばされ候一條を聞しに、隆徳院様御逝去後、御喪中に在せられ候節、折
節召出されしに、或時御用人以下、御側の衆に至る迄、召集られて御酒など下されけるに、平太左衛
門も御用人にて其座に列り、右の御酒を頂戴不士、強て御断申上て曰、當時は差kねど頂戴仕候譯にて
ござなく、禮に叶不申、遂に頂戴せざりしとなり、是を以て公其正しきを御見込遊されしとぞ、固よ
り才徳全備の人なれば、ヶ様な事は、其一端にて擧るにも足らねど、明君の光□格別と感じ奉りぬ
上林政朝所著落穂集附録
御存じ織田信長の天下所司代といわれた、村井貞勝の子孫である。
百五十石 村井虎之允
一、先祖村井長門守儀
信長公江被召仕五万石拝領仕天正元年七月
京都所司代相勤居申候処同十年六月
信忠公御生害之節戦死仕候 長門守實子
村井作右衛門儀様子御座候而其後切腹仕候 右作右衛門
嫡子村井左太郎幼少之自分依縁類前田
徳善院玄以元江育置被申候処
秀吉公御成之節右左太郎儀訳有之者之儀
委細を聞召天正十五年三人扶持即座ニ
御朱印被為拝領于今所持仕居申候
秀吉公御他界之後縁類堀尾山城守殿ゟ
合力等有之浪人分ニ而京都江居申候処法躰
村井道以と相改申候 右山城守殿御死去之後
妙解院様ゟ御懇意之筋目ニ付初代右道以儀
寛永年中當御國江被召寄同十一年御知行
三百石被為拝領一生浪人分ニ而被召置候道以
忰三人村井作右衛門江同十二年御知行貮百石
同十三郎江御知行百五十石同長兵衛同十六年
御知行三百石被為拝領其後従
真源院様三百石御加増被下都合六百石ニ被
仰付其後右十三郎長兵衛両人共家断絶
仕候 右道以病死仕候ニ付忰作左衛門江下置候
貮百石被召上父道以江被下置候三百石直ニ
二代目作右衛門江被為拝領候
一、右村井作左衛門儀江戸江茂罷越相勤寛文
十年御鉄炮三拾挺之添頭被仰付當然之御番
長崎江之御使者等相勤延寶五年十月如願
隠居被仰付候
一、三代目村井十郎右衛門實は加賀山主馬末子ニ而
明暦三年御中小姓被召出寛文二年村井
作左衛門養子ニ被仰付延宝七年江戸御留守詰
被仰付元禄二年佐賀関御番被仰付翌三年
十一月罷帰同七年御番御目附被仰付同十一年
如願隠居被仰付候
(以下略)
谷口克広著「信長の天下所司代 筆頭吏僚 村井貞勝」によると、p186に「生き延びた村井一族たち」があるが、佐太郎(道以)については触れられていない。しかしながら村井播磨守長勝なる人物は前田玄以の下代として活躍したとされる。佐太郎が幼少時、前田玄以の許にあったというのは、長勝なる人物の肝いりによるものであろうか。大変興味深い。