津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「宝暦の改革」の立役者  堀 平太左衛門(巣雲)・7

2015-04-07 17:41:31 | 史料

                一、瑞雲院殿環山日長大居士寛政五年癸丑四月廿三日○寛政甲寅夏四月孝子太簡建墓石文墓本妙寺山中にあり
                一、平太左衛門殿は形儀正しき人にて、寄合抔の節、袴をぬぎ置れ候を、腰板と前を打取拂候へば、ひ
                  だ一つもたわれず、皺とても無之由  鎌田氏記録
                一、平太左衛門殿、執政の時分、群議沸騰致し、間には打果に参申候筈の族も有之由抔に付、継家抔甚
                  以て致氣遣、用心致され候様にと、心を付候節、平太左衛門殿噂の趣に左様な志の人至候はゞ、老
                  年ながら相手になり可申とて、少も騒れたる氣色なく、改革相済たる由  同上
                一、平太左衛門殿へ茶杓を頼し人有けるに、易きことなり作りて差出可申とて、約束致され、數年を經
                  れども、作て遣し無之故、頼し人も繁勤彼是にて、定て失念致されたると存居候處、數年の後、作り
                  て遣され、何角の故障ゆゑ延引致候段申され候由  同上
                一、平太左衛門殿隠居打立れ候折節の咄に、来年御下國の上にては、隠居可致存年に御座候、何ぞ心
                  懸も無之候へども、自然何事ぞ有て、御人數差出され、何れも勇進んで罷越候節、奉公御断申上、
                  隠居仕居候身分にても、出陣の行粧をながめて計りは居られ申間じく、其跡に至り何分たまり兼可
                  申、されば隠居も甚致したむなき由、追々子弟衆へ咄し申されけるとなん  同上
                一、右同人放生會の日、何方へ参られ候や、夕方歸宅の砌、勢屯の方、殊の外賑かなる様子なり、歸る
                  /\丹右衛門殿初何れも出向の處に、あの物音はいかに籠城抔致し居候時、敵方より塀下に詰寄
                  あの通競懸り申候節は、嘸々打て出、一戦仕度事に可有之、其方共も極て左様に存ずるにて可有之
                  と申され候處、丹右衛門殿は左様の時節出てもよし、不出もよしとの事ならば、私は罷出申まじくと
                  申され候へば、殊の外不興氣にて暫は對面も許れず、目前を構置候由 同上
                一、右同人山鹿在へ猪狩三日迄終日無休息狩申さる、狩に出候面々、何も草臥、及難儀候へ共、翌日も
                  狩可申との事ゆゑ、丹右衛門(嫡子)どのには、ヶ様にきつき事計致候て、何の面白きこと有之べきとて、
                  先に罷歸られ候程の事なり、右等の事にて甚立腹、翌日は彌以て狩可申、何れも早く相仕舞、山に赴
                  き可申、申觸られ候に付、何れも大に迷惑致し、色々と及讃談、川狩ならば苦労も少く可有之との
                  儀にて、御郡代より山狩は何れも大に草臥、難澁仕候間、川狩の手當仕候ては、何程に可有之哉と
                  相伺候處、不恠不機嫌にて、拙者は此節は山狩に罷越申候、川狩は川狩に罷越候節致可申との事なれ
                  ば、何申事も相分不申、難儀ながら又々山狩に出申候由  同上
                一、諦了公(齊茲)御初年の比、平太左衛門殿、竹原勘十郎両人を召出され、御前に於て蕎麦切の御料理下置れ
                  候、此砌寒氣の時分、夜中に至り別て寒さ強く強相成候間、平太左衛門儀は老齢の事も之あり、膴々
                  氣削可申との御意にて、之を着候へとて、召させられ候羽二重の綿入御羽織を御手自ら下置れ候、
                  平太左衛門殿難有奉頂戴、御次にて肩衣を取り、右羽織を直に着用被致候、後退去の節、御取次
                  井上平八へ申聞られ候には、今晩は寒氣強き折柄にて、老人膴氣削可申との上意にて、羽二重御羽
                  織拝領させられ、誠以難有仕合に奉存候、然處御國中末々には、斯寒夜に、如何計凍候老人も可
                  有之哉難計、乍恐御目前に罷出候拙者事迄、御心にては萬民の飢寒に差逼候もの御存知遊ばされず
                  候にては、難相済事に付、序もあらば右様の處は貴様方より申上られ候様噂有之、退出に相成申候
                  平八右様の序と申候は間遠しとて、直に御前に罷出、平太左衛門演舌の趣委申上候處、甚御感心遊ば
                  され、勿論御目前に罷出候、平太左衛門迄に不限、御國中末々の儀も、御氣に付せられ候段、御意遊
                  され候事   同上
                一、葛西彦四郎 今源左衛門親なり 家督の比、堀平太左衛門どの、其頃隠居にて本莊に居られしに、彦四郎に参
                  るべしと申遣さる故、彦四郎は何事やらん、家督即下の事なれば、定て主家(有吉家)の家政の事にても尋ら
                  るべしと、内心は心しらべして参りしに、例の通相應のゑしやくにて、酒など出し、少し厳重にし
                  て申されしは、今日召遣し候も餘の儀にあらず、返すべき事のありける故也、夫は其以前京町の屋
                  敷に居し時、今の藤崎作右衛門屋敷 御親父何某ひたと申聞られ候は、人は忠信の二ッに非れば、一日も立べからじ
                  別して君に仕、大職に居者は、暫も之を忘ては、たとへ何程の知恵才覺ありたりとも、何の役にも
                  立ことに非ずとのこと、某も殊に身にしみて覺候へば、不断忘不申、今日に至候、今迄の内は不才
                  の某不怠過何程をか仕出づらん、されど忠信の二字に闕たることあらざれば、今無忝仕へを致
                  したり、貴様家督に相成、殊に有吉家にては重き家柄に候へば、別て此忠信の二字大切也、某隠居
                  の身なれば、今貴様へ此二字返置申候、必疎略し玉ふな、是亡父の言なれば、かまへて/\忘却
                  あるべからずと、深く戒められしと、或人の物語に聞り  高瀬氏著随聞録
                一、堀大夫江戸より歸着の翌日、桐油しらべにて損したるは繕ひ、油引直し等、定例の由なり  同上
                一、田沼公全盛の比、堀大夫家來を暇遣し、田沼公に徒奉公致候由、依之公邊の事早く知られし由なり 同上  

                   

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■波奈之丸

2015-04-07 09:36:35 | 史料

 現在熊本城内にこの波奈之丸(なみなしまる)の御座所(他)の部分が展示されている。豪華な飾り付けがなされて往時の藩主の船旅の華やかさを知らされる。
この図は昭和37年より修理工事が為された折の、「重要文化財細川家舟屋形修理工事報告書」に取り上げられている波奈之丸の全体図である。
進行方向左から御茶風呂、御座所、次の間と並んでいる。この部分のみで7.7mだとされるから、この絵図から類推すると波奈之丸の全長は約31.5m程と考えられる。瀬戸内の海を御供の船数十艘を伴って優美な姿を見せていたのであろう。

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