九州国立博物館が開館10周年を迎え、記念特別展が21日から始まった。
出品目録を眺めてみると素晴らしいものばかりである。季節もよし膝の痛みが心配だが、これは是非とも見に行かねば・・・・・
熊本に於いては侍が住んでいたところには町名がなかった。水道町周辺にあった旧町名、被分町・明円寺町・比丘尼町・一本竹町・黒鍬町・桜井町・長安寺町など明治に至って付けられたものである。いずれも下級武士の住まいがあったところである。いまでは何れも正式には使用されていない。
先に黒鍬衆の事を書いたが、黒鍬町の今一つ北の通りを一本竹町といったらしい。私はまったく知らなかった。
我々が史談会の会合で使う熊本市中央公民館の前を、三号線を越えて直進する道である。(但し水道町交差点から北進して左折する一方通行の細い道である)
何でこのような名称となったのか、いろいろ資料を眺めているが現況全く分からない。
神風連の乱に知事・安岡良亮を殺害した高津運記が、事前に友人某宅に母親と愛娘を呼出して、任地人吉の青井阿蘇神社に帰る旨をつたえ永の暇を告げている。
その友人宅が一本竹町にあったという。
この通りは切米取りや長柄衆などが多いのだが、現在の上通りに出た四つ角には中級武士の屋敷が連なっている。その某氏のお宅が何所にあったのかは判らない。
まっすぐ抜けると現在は千葉城橋からNHKの前を通って美術館分館の脇をへて熊本城へと至っている。
又一つ宿題が出来たが、この一本竹町の由来についてご存知の方はご教示給われば幸いである。