読み解くにはいささか骨が折れそうだが、面白そうな史料に思える。私は応札はしませんが、皆さん頑張って・・・
私が熊本史談会の事務方をお預かりしてから、三年目に突入した。新年度でもあるので事業報告・会計報告といつもとは違う仕事が増えて、数日前からてんやわんやの有様であった。新規の事もいくつかあったが、どうやらこれもクリア一安心といったところである。
本番は古川古松軒の「西遊雑記」巻五(肥後)を二回にわたってご説明することにして今回はその一回目。薩摩の米ノ津から熊本の水俣へ入り、三太郎峠をこえて日奈久・八代をへて宇土・川尻を通過、水前寺成就園(見物できず)で今回は終わり。
次回は熊本城の見物から阿蘇へと至るルートである。
古松軒の舌鋒は辛辣なものがあり、いささか「それはないでしょう」といいたくなる感もある。
天明三年のことだが、時の藩主は重賢公である。天下は天明の飢饉の真っ最中だが、財政再建の成った肥後藩では飢餓に陥るようなことは見受けられず、古松軒の記述にもうかがえない。この時期阿蘇に於いては熊本で最初の石橋の建造が為されている。
熊本の各地にのこる多くの石造眼鏡橋は藩からの借入金は当然ある物の、民間の金で作られている。肥後国の民力の向上が伺える時の始まりである。