津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御恵贈御礼「松寿庵先生江戸咄」

2015-04-21 20:01:01 | 書籍・読書

 ■松寿庵先生 第136講 (本になりました)でご紹介した「松寿庵先生・江戸咄」を、編著者の松下様から御恵贈いただいた。
過日メールでご連絡いただいての事だが、まことに恐れ入った次第である。深く感謝申しあげる。
かっては「熊本日々新聞」の連載であったが、その終了を知った時大変残念に思ったことであった。現在の「熊日スパイス」に移行して再び連載が始まり一安心をしたことであった。これは全国の方々に知っていただきたいと考え、2013.9.8日第68講を最初にご紹介を始めたが、編者にも「熊日スパイス」にも御断りなしに始めたという不届きの至りである。いつかお叱りがあるかもしれないといささかびくびくしていたところが、この様な仕儀と相成り驚いている。
ある古文書の会で松本先生に教えをいただいているが、欠席の多い不肖の弟子である。会わす顔がないことである。

松本寿三郎先生、松下康惠様に重ねて御礼を申し上げる。そして是非皆様にもお読みいただきたいと思う次第である。 

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■天草出身の忍の者

2015-04-21 08:41:37 | 歴史

 熊本史談会の会員K氏の奥様は野田喜兵衛のご子孫である。

侍帳「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」によると、「忍之者」として七人の名前が挙げられているが、その中に「拾五石五人扶持 野田喜兵衛」とある。忍の者といえば「伊賀・甲賀」と考えがちだが、こちらは天草の人である。K氏は同一人物だとされるが如何なものであろうか。

綿考輯録に委しい記載がある。

 野田喜兵衛・重綱(天草本渡城主天草伊豆守種綱三男・喜膳)
【天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをおめすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
  三斎様御詠歌
    天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり (綿考輯録・巻26)】 

天草を旅立ち何を思ったのか丹後の細川忠興を訪ねている。細川家の豊後・肥後転封に伴い父祖の地に帰るという偶然が面白い。
又、喜兵衛は忠利公に殉死をし名を知られるが、当時69歳であったという。寛永18年(1641)の事であるから、天正十七年(1589)当時は17歳の若者であることが判る。
殉死の跡の事については「忠利公・光尚公御印物」による「追腹の衆妻子及びに兄弟付」次のような資料も見える。
 ● 野田喜兵衛
         右之女房
   御切米拾五石五人扶持・喜兵衛嫡子歩之御小姓仕居申候
         野田三郎兵衛
  「喜兵衛女房ニ為養之扶持方可遣也 印」

喜兵衛の跡は三代に渡り養子を得て跡式、四代の三郎兵衛代「お暇」
【野田三郎兵衛儀弐百五拾石被下置候處 享保九年十二月御暇被下候 先祖訳有之者故追而拾人扶持被下置候處 養子喜兵衛ニ引継被為拝領御中小姓ニ被召出置候】

野田喜兵衛はかっては切支丹であったらしく、「故越中守召仕轉切支丹野田喜兵衛系」として系図が残されているし、「野田喜兵衛申伝之覚」等と云う史料も残されている。波乱に満ちた喜兵衛の生涯は注目に値する。

                                                                            

 

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