熊本史談会の会員K氏の奥様は野田喜兵衛のご子孫である。
侍帳「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」によると、「忍之者」として七人の名前が挙げられているが、その中に「拾五石五人扶持 野田喜兵衛」とある。忍の者といえば「伊賀・甲賀」と考えがちだが、こちらは天草の人である。K氏は同一人物だとされるが如何なものであろうか。
綿考輯録に委しい記載がある。
野田喜兵衛・重綱(天草本渡城主天草伊豆守種綱三男・喜膳)
【天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをおめすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
三斎様御詠歌
天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり (綿考輯録・巻26)】
天草を旅立ち何を思ったのか丹後の細川忠興を訪ねている。細川家の豊後・肥後転封に伴い父祖の地に帰るという偶然が面白い。
又、喜兵衛は忠利公に殉死をし名を知られるが、当時69歳であったという。寛永18年(1641)の事であるから、天正十七年(1589)当時は17歳の若者であることが判る。
殉死の跡の事については「忠利公・光尚公御印物」による「追腹の衆妻子及びに兄弟付」に次のような資料も見える。
● 野田喜兵衛
右之女房
御切米拾五石五人扶持・喜兵衛嫡子歩之御小姓仕居申候
野田三郎兵衛
「喜兵衛女房ニ為養之扶持方可遣也 印」
喜兵衛の跡は三代に渡り養子を得て跡式、四代の三郎兵衛代「お暇」
【野田三郎兵衛儀弐百五拾石被下置候處 享保九年十二月御暇被下候 先祖訳有之者故追而拾人扶持被下置候處 養子喜兵衛ニ引継被為拝領御中小姓ニ被召出置候】
野田喜兵衛はかっては切支丹であったらしく、「故越中守召仕轉切支丹野田喜兵衛系」として系図が残されているし、「野田喜兵衛申伝之覚」等と云う史料も残されている。波乱に満ちた喜兵衛の生涯は注目に値する。
