津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■佐分利越人という人物

2015-04-11 10:41:25 | 歴史

 ちょうど一年前 ■縁組 佐分利家×松岡家 を書いている。
そして佐分利越人なる人物についても、
ミステリアスな人・佐分利越人(越知越人) を書いていた。
吉田美和子氏の著「うらやまし猫の恋 越人と芭蕉で、著者は主人公俳人芭蕉の弟子・越人を熊本の佐分利氏だとする説を完全否定している。
これは誤伝によるものであるというのである。

そもそも吉田氏が指摘する誤伝はどこから出発したのだろうか。熊本在住の文学関係者でこれを調べた人もいないように思われる。
吉田氏は、幕末文政年間に出された曰人著「蕉門生全伝」が「肥後熊本の出身、細川越中守の近習佐分利流槍術家佐分利勘左衛門であるとする誤伝」だと断定されている。
ところが時代を遡る事項がみえて事は厄介である。それは在熊の俳人・久武綺石(文化二年歿)の墓石に刻まれた次のような文章である。
「俳諧者滑稽之流也、而其始也戯謔而也、及芭蕉翁同其體栽、而燮風旨、然後言近而指遠者有焉、謂之正風、吾藩佐分利越人、嘗出居濃洲、學於蕉門、及其後歸也、職事鞅掌、不暇傳人、正風自綺石子云」
これは肥後先哲偉蹟に「佐分利越人」なる項から引用したが、この項とて一重に「俳人越人」を取り上げていると思われるが、実否が混交していずれが真実か計りがたい。
吉田氏による「越人・芭蕉 略年譜」によると、越人の没年は享保二十年頃としているが、佐分利家の先祖附によると没年は元禄十五年三月十四日であり、明らかな違いがある。
まことにミステリアスで出典を洗い直す必要がある。好色な人・越人とされた「佐分利七兵衛氏恒」の名誉のためにもである。 

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■「宝暦の改革」の立役者  堀 平太左衛門(巣雲)・11了

2015-04-11 07:43:14 | 史料

                     御辭令
                        書付 安永七年十二月二十二日

                  平太左衛門儀、御加禄御断に付、願の趣達尊聴
                  謙譲の旨趣、具に聞召届せられ候、格別の存年に付
                  達下され度儀には思召上られ候へ共、御家重き勲業
                  の御賞賜を枉闕させられ候儀は、平太左衛門存年、             枉=まげて 
                  御感賞一偏の思召にも任せられ難き儀に付、御書付
                  通彌以て下置れ候様條、此段申聞べき旨、仰出され候
                  以上

                     
                     口上之覺
                  平太左衛門儀、御加禄御断に付、猶又仰出され候趣
                  は、只今申渡候様通に候、厚き存年の趣逐一に聞召届ら
                  れ、御感心遊ばされ候、然處、御政務の管轄は、格別平太
                  左衛門へ仰付置れ、多年の勤労、數多の勲業、疾にも
                  賞らるべき處深き思召有之、御賞賜の儀當時迄、御差
                  延置せられ候へ共、著き成功及御國家、賞せられず候
                  ては、於御政務重き御賞賜の事闕候に付、先蹤後鑑何
                  分其通に差置され難く、彌以御書付の通下置れ候旨、
                  仰出され候、然ながら右の通仰出され候儀、於平太左
                  衛門は迷惑に奉存べくと、此段は御苦悩の思召上ら
                  れ候、右の趣猶又委敷申聞候様に仰出候以上
 

                     御直書   寛政四年七月四日
                  平太左衛門儀、數十年來抜群の勤功無比類儀は、追
                  々申聞候通に候、是迄四代の間、精勤令満足候、然
                  處及老年候に付、願出の趣尤に存候、此上今暫も相
                  勤候儀存候へ共、願の趣も無餘儀事に相聞候に付、
                  乍残念直に隠居申付候、然上は多年致心労候間、随
                  分可保養、、随意に緩々休息候様、随て此品、此小脇
                  差大原宗永隠居指に可致相應哉と存付候間遣候、尚病快
                  相成候はゞ、追々咄等に出候様存候なり
 

                     堀丹右衛門へ仰渡さる  弘化四年正月十一日
                  高祖父平太左衛門、格別の勤労思召され、別段の思
                  召を以て、御加増高舊知に准せられ、都合三千五百
                  石、後年迄増減仰付られざる段之を仰出さる

                     (以下白文略)

                               了 

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