青潮社刊行の「肥後細川家分限帳」に資料③として、「細川藩要路者一覧」(明治三年)が掲載されている。
又、新・熊本の歴史・近代「上」の前田信孝著「激突した城下の維新」に、森田誠一氏がまとめられた「実学党系人物進出一覧表」という、上記要路一覧に比する形の表が示されている。(平凡社刊「明治維新と九州」所収、森田誠一「幕末・維新期における肥後熊本藩」)
この二つの表は、半年にも満たない時間差なのだが前者は学校党政権、後者はいわゆる実学党の政権であり、知事は細川護久であり大参事に弟・護美の名前が連なっている。
以下そうそうたる実学連の人々の名前が見える。まさに「肥後の維新」が為った。
細川韶邦に対しては実学党が藩主の座から引き下ろそうとする動きがあった。藩主に異義あれば「屹と覚悟の筋有之」とするものである。
明治三年五月八日韶邦が隠居、弟・護久が家督した。
「肥後の維新は明治三年にきました」とは徳富蘆花の言葉であるが、森田誠一氏の一覧にある実学党による政権が樹立した。
徳富蘆花がいう「肥後の維新」とは、熊本における実学党による政権と解すべきであろうと私は考える。実学党政権は時の流れるに従い明治政府の目指す方向性に乖離するものであり、明治六年には実学党政権は瓦解するのである。
阿蘇波野村やその周辺には「知事塔」なる物がいくつか存在する。明治三年の減免除令に歓喜した農民が「村々小前共え」の全文を碑に刻して、謝意を表したものである。これが隣国などにも大なる影響を与え、その国々で熊本同様の減税を求める一揆を誘発していった。
知事・護久はこのことを大変重く考えて退任を考えるようになる。又弟・護美もこれを追うように辞任を申し出て、逃げるように海外留学の途に就くのである。
実学党政権瓦解の一因と考える識者もある。細川家を頭に仰いだ忠利公以来の永々たる歴史は、実学党の瓦解と共に終焉の時を迎えたと云って良い。
肥後の維新は皆無とは言わないが無血と云ってもいい。薩長土肥に比するといささか頭でっかちのひ弱さが感じられる。