宝暦五年(1755)六月初頭、球磨地方は数日間大雨にさらされ六月九日に山が崩れ川をせき止め、激流はこれを乗り越えて河口に至った。
元和五年(1619)時の八代城主加藤右馬允が、八代城の築城に並行して、城下を洪水から守るためにと球磨川に延長6.2キロに及ぶ堤防を作らせたが、このときそのうちの1キロが決壊した。
八代御目附の稲津弥右衛門が自ら志願して、この復旧工事にあたり松尾常太郎が献じた七百貫の現銭を雇人夫に分け与えるなどして陣頭指揮をし、見事に復旧の任を果たした。のちに人々は「あのや稲津様は佛か神か 死ぬるいのちををたすけたも」と唄いその功績を称えた。
伊形霊雨が「庶民の人情風俗を歌い且つ其歌意を説明」編輯した「民草婦利」に、特に八代・芦北に関して「附録」をだしているが、ここにこの事業に関わる歌が扱われている。
・熊川の水かさまされる五月雨に松江の城は沖の中島
・たらちねの行衛をとへばしら浪の八百の汐合に立ちさはぐみゆ
・ゆく川の此水底は父の里母の住家とときくはまことか
民人の悲しみの心情がうたわれている。
また弥右衛門の偉業をたたえる歌も見える
・秋の田の稲津の神のなかりせばしぬるいのちを誰れたすけん
そんな中でこの工事がきれいごとばかりではなかったことを伺わせる歌が残されている。
稲津某の下司に、いとはらあしきをとこなん有りける、ともすれば腹だちて、杖をふり立てつゝ、怒りけるにおそれて、うたを作れり、それが名をばけにけちとなん呼びければ、うたの頭におきて
・けはしくも晝飯くふ間もおそしとや杖ふり立てて怒る君かも
・になひかね引きかねにける石よりも君が心の角ぞはげしき
・けずるともあくるともなき黒髪のとけぬ恨はいふかひもなし
・ちゝ母の撫てし我身ぞあらちをのあらきたぶさの杖なふれそね
かのけにけち、民をいたはる心なしとて、稲津の神いましめ給ひしかば、畏まり居たりけるに、民また彼が名を呼ひかへて、そこの石ぶしとぞ云ひたりける
・流れよる水のみくずにかくろひてかしらなあけそそこの石ぶし
民のにくみしこと、かくなんありける。
そんな中にも心洗われるような歌が見える。
・萩原の塘つく少女いとまなみ花すり衣袖をまくりして
・赤のたすきあゐの前垂誰とだに知られぬ人を懸けて戀ひつゝ
球磨川堤防の改修に神とも慕われた弥右衛門であるが、厳しい仕事ゆえに雇人夫の恨みをかう人物もあった中で、女性の働き手も出て和らぎの気持ちが見えていたことがほっとさせられる。