一、或年の夏、村里所なく雨乞をすれども雨降らず、大夫の□□儀にて、六所宮の社人に仰付られ、二丁住吉
社に於て、私宅に引入、自分の祈念有之候由、然る處七日目の朝迄、一向雨の氣無く候に、其夕方
になり、大夫供の者まで悉く雨仕度、蓑笠にて住吉社へ参詣有之、祈念致され候に、暴に天掻曇り、大
雨車軸を流し降ければ、群衆の百姓供、流れの中に屈伏して、涙を流し、大夫に向かひ、伏拝み申候、
此儘にて悉く蘇り、秋の實のりも類無りしとなり、是ぞ至誠天を感ずと可申候 行状の一本を抜す
一、彼の家に仕へし老女の噺とて、大夫初て大奉行の命を蒙られ、夜寝間に入られしが、人静りて猶物を
思案して、しはぶきの音聞えしが、鶏鳴近付て大に安心の體にて大息突かれ、夫よりしはむ(ママ・ぶ)き止て、
いびきの音、熟睡の様子に相聞え候となり、竊に大夫の思案致されし處の事を案ずるに、他の事に
て無之、必此日御委任蒙られし處の國家中興の要務にて可有之、但し承るに、大夫妙齢より經世有
用の意に志有て、常に國政の因循陵夷を憤り、故老能吏に就て、政事の要領、選擧刑法、町財勘定
等の組立を、悉く問尋、又江戸往來に大坂の米穀の形勢を見積て、國家中興の成算を早く胸中に思
惟致置れ候由、然るを霊感公兼々能御存遊ばされ候となり、然れど容易に事を取計はれず、大夫に
も此節御政事を手取られ候に臨ては、兼々思惟致置れ候處の、中興の成算を彌實地に踏候て、弊害無
之哉の所を、尚又終夜思案加られて、其後慥に見込立候上、御受申上、差入御奉公致され候と存候 同上
一、堀平太左衛門殿在勤の内、或時何者か為たりけん、備前堀の側の一寸榎へ、平太左衛門殿を堀屋
平太左衛門、才助殿を志水屋才平と、町人のやうに書て、此人御政事に與り宜しからずと云とを書た
てゝ張付ありしを、其朝早く堀殿家の目附役の者、見付て書寫、早速平太左衛門殿へ見せければ、扨
々をかしき事を致したりとて、不怪笑はれける、頓て御役人など通り懸られて、はぎすてられける
を、平太左衛門聞かれ、夫は笑草ともなりなんものを、はがずに置けばよいと申されて、少も心に
かゝる様子もなく、素より露も腹立らるゝ氣色聞ざりしとぞ、其後才助殿と咄合、又共に笑はれける
となり、世の常の人にてありなんには、怒を含み、必権柄を以て吟味をも、とげらるべきことなるに、
氣にも當られざるは、誠に格別なる所なるべし、 雲从堂秘話
一、堀平太左衛門出頭の時分、或朝門前に、人形の馬を率、門に入る體を作りたるを、落してあり、人
形の足は、赤脚半をさせたり、玄關の者共、不審に存じ、平太左衛門に申出候處、平太左衛門よし
よしと申されたり、家來如何なる譯にてござ候やと尋けるに、足元の赤き内に、引込めと云事なり
と申されしとぞ 忍草
一、 (白文略)
一、堀平太左衛門勝名初勝貞隠居後巣雲と穪す 享保元年十二月三日生・寛政五年四月二十三日没年七十八
號瑞雲院 本妙寺山中に葬る 母藪氏慎庵の妹なり 配平井杢之允女三男二女を生む 長丹右衛門勝文別有傳 次民之
助大木氏を継ぐ 次女益田彌一右衛門に嫁ぐ 次女西山彌次郎に嫁ぐ 次大八松野龜右衛門養子となり病
氣にて離別 家記
一、御裏にて御祝胴擧と申て、御小姓頭御用人など、新に仰付られ、又悦事有之節、擧て迷惑致させ候は
古來よりの風俗なりしに、堀大夫、御小姓頭仰付られ候砌、御裏へ参られ、麻上下着にて、今日は
御祝に預度と、先をかけ罷座られければ、其顔色にや畏れけん、威儀をや憚りけん、一人も近よる
人無りしとなり、此時年十八なりしとぞ 池松筆記
一、堀勝名執政の時、一年旱甚敷、種々手を盡し雩ありしかど、其験無りければ、勝名朝粥を唯一椀食
して、政府に朝し、歸ては一粒の食もせず、朝服のまゝ、庭中に榻を置て、其上に座して、炎暑に照
られながら、雨を祈り、夜に入て、翌朝に至る迄、其通に端座して、さて出勤前に、又粥一椀を食し、
出勤あり、歸て又昨日の如くして、雨を祈られければ、天神感應座し、六日目には大雨降來て、國土
を潤し、草木共に生盛せしとなり 梅園雑記