藪三左衛門は細川家に於いて一万二千石を拝領していた藪内匠の三男である。のち三左衛門は細川家を離れて紀伊徳川家に仕えた。
私は三左衛門自らの意思によるものだと思っていたら、なんとこれが召し放ちであることが分かった。
大坂の陣において三左衛門は、忠興の許で鎗働きで高名を挙げている。
槍つき候衆、一番七助(清田乗栄)、二番縫殿助(村上景則)、藪三左衛門(政三)、佐藤伝右衛門、佐方与左衛門(友信)、吉住半四郎(正景)、續少助(重友)
召し放ちについての記録が見えるのは、元和十年(寛永元年)三月五日の奉行所日帳である。
一、藪三左衛門被放御扶持候ニ付、御借米・御懸銀等之事、中津御奉行衆ゟ被申越候條、小左衛門・甚丞預り置申候事
十六日
一、藪三左衛門役之儀ニ付、中津御奉行衆ゟノ状來ル、本書民ア殿(小笠原長元)へ有之、則、御返叓ニ候間、三人共ニ加判仕候也
この後も閏三月中の記事に、借米や懸銀、三左衛門が務めていたと思われる役儀の事(跡継ぎか)、また三左衛門の新田の小作についての事など、中津奉行との書状のやり取りが覗える。召し放ちの理由はうかがい知れないが、三齋の御機嫌を損ねたということではあるまいか。
藪内匠には五人の男子があり三左衛門は三なんである。細川家に二男・図書系に九十郎家・一家、四男・市正系に市太郎家・小吉郎家が明治に至った。
嫡男は不明、五男は男子なく断絶している。女子は長岡主膳信友(織田高長)に嫁いだ。
三左衛門についての其後は、堀内傳右衛門の「旦夕覺書」に次のような記事があり、細川家との交流も続いていたことが伺える。
澤村大学も一時召し放ちになったが忠利の斡旋で帰参しているが、三齋とは19年間逢いまみえることはなかった。
三齋の気性の激しさを覗わせている。
旦夕覺書・抜粋
一、三齋公御代に藪三左衛門殿は御家ゟ立退紀州大納言頼宜公へ三千石にて被召出候由紀州にて毎年正
月初に御鷹狩に御出被成候儀御吉例にて御供は大名多く相應/\に人も多く召連銘々場所に結構成
るどんす或は絹幕に定紋付け瓣當も長持に魚鳥料理させ荷物も多く持せ給へ申事も埒明不申揃申
儀度々延引候 藪三左衛門殿召出候て御供に被召連候て御覧被成候へは布の幕うち主従共に腰瓣
當三左衛門は将机にて幕をしほり一番に給仕舞居申候を御覧被成
三齋所に居申たる様子顕れ見へ申候 向後何も御家來共絹幕無用布に仕瓣當もかろく三左衛門ことく
可仕旨被仰聞候由承及候 親藪内匠殿は豊前米田監物肝煮にて壹萬貮千石にて被召出候由
内二千石は與力の様に内匠殿家来にては無之候へ共或は縁者又は所々にて手に付働有之者の内湯浅三太夫は五百石被下候
弟出羽右衛門湯浅角太夫代に御暇被下候 服部・真野・松村大勢内匠上りと申候 其刻監物殿は六千石にてさのみ
内匠殿におとり不申監物か内匠被召出偖々能き者御家に参候とて歓被申候由御聞候由にて長岡筑後
殿御咄候由白木貞右衛門咄申候
一、光尚公御代江戸にて藪三左衛門被参候へは其儘御逢被成三左今日暇ならは緩々と居語り可被申候御
手前にて茶を振舞可申と御意被成三左衛門も忝かり御意にまかせ御茶も被下候て歸被申候刻御送被
成偖々三左衛門はおしき者を 三齋の御出し被成候唯今にても歸参可仕ならは一萬石餘も可被下と
御意被成候由同苗不白其時分御兒小姓にて見申候 男も如形能く偖又御茶被下候様子 三齋公御側
被召仕候と見へ申様に御座候由不白被申候 唯今小納戸役に藪七郎右衛門と御座候は三左衛門殿子孫
と承候由十年程以前熊本ゟ紀州へ横山藤左衛門御番頭の時被参候 被歸候て承候 紀州は御家老の外大
名は跡へり候て被仰付候に藤左衛門被参候刻も三千石迄は取不被申孫にて候様に被申候 松平安藝守
様御家も紀州様同然と承申候
「御侍帳 元禄五年比カ」に、人持衆并組迯衆に二千石・藪三左衛門とあるが、同名異人で藪一家の四代目の事である。