(先祖附)
一、先祖堀平左衛門勝好儀越前の者にて妙解院様被召出眞源院様に御附被成寛永十年九月御知行二百石
拝領 島原御歸陣後二百石御加増 二十年十二月三百石御加増奉行役合七百石 慶安四年三月廿六日眞源
院様御三囘於妙解院殉死 七百石の内三百石嫡子丹右衛門へ二百石二男次郎右衛門時久へ拝領残二百
石は勤中銀拝借返納方に差上 二代丹右衛門三百石寛文九年十月二百石御加増御弓頭 三代次郎大夫實
は次郎右衛門弟御小姓組・御使番・御小姓頭・御用人・大御目附享保十八年九月隠居 四代平太左衛門勝名
初勝貞 右家督大組附 廿年二月御中小姓頭 元文五年御小姓頭 延享二年六月御供罷登翌年御供下 四年三月
御供登翌年御供下 五年七月御用人寛延二年十二月被差立翌年五月京都より御前様御供江戸へ罷越三
年御供下 寶暦二年七月御奉行役・御勝手方請込御郡方請込 同年九月御用にて大坂被差越御用相済十二月下
着 六年七月御中老 十二年十月御足の内千五百石地面 明和二年九月江戸へ被召寄三年四月江戸被差立
京大坂御用仕廻六月下着 四年十一月家老職御足五百石御刀一腰拝領 六年十月大坂表御勝手御用申
談罷越翌正月下着 八年三月出發同年十二月下着 安永二年組御預 同年九月出府 三年御發駕翌日罷立六
月下着 同年八月御脇差一腰拝領□年二月被差立大坂御用勤三月江戸着御用相済十二月下着 六年江戸
へ被召寄八月着七年七月下着 同年九月御足の内千五百石地面御辞退奉る無御許大御奉行勤御免 天明
三年二月出府九月御鞍置馬拝領十一月下着 六年七月千五百石御加増御辞退申上御免十文字御槍拝領
八年三齋公御作□□拝領 寛政元年正月千五百石御加増強て御辞退申上御免 同年九月公邊御褒詞 四年
七月隠居巣鶴と改名御蔵米千石御小脇差一腰御帷子一重御羽織一拝領 五代丹右衛門勝文初丈八別傳有
一、平太左衛門殿、御國の儀に心を用られ候處は、一世を振はれ候位の事にては無之、御家久しく御徳
政行れ候處に目を付られ、深く人才を愛せられ候て、誘引有之候となり、第一志水次兵衛どのは豪
英の生付にて、何事も思の儘に振舞れ、中々重役など勤らるべき人體とは相見不申候處、平太左衛
門殿其大才有之候段を見受られ、若年より御奉行に用られ、其後其身に差継、大御奉行、御勝手方、
御家老に進られ候處、果して其職に叶ひ、一國の御政務を管轄致され候て、決断烈しく名臣の聞え
大夫に亞申され候、又島田嘉津次殿は目付木訥の様子に有之候處、内實經世の大才を懷かれ候儀を
平太左衛門殿、藪茂次郎殿より聞取申され、別段の儀を以、御勝手方の秘記等を内々示置かれ候處、是
又御政務の根になりて、寶暦の令緒を継がれ、受免等の組立を始申され候、國家に残り候仕置共數々
有之、近世に秀候名臣と罷成れ候、扨平太左衛門殿或年の春、學校試業に出役致され候に、師範よ
り長日退屈致さるべき段申候處、少も左様には無之候、某若手の衆を始て見受候へば、先其人々の
言語容貌を得斗観察致候て、其才器を計り、此人は往々何の御役に相應可致、又は何事に用可申と、
必目を留置候に、生長に随て彌見込通に宜く生立候人も有之、又見込より格別に器を成候人も有之、
末頼もしき事共に候と申され候、總て平太左衛門殿、人才に心を用られ候儀、右等の次第にて古の
大臣にもおさ/\劣申すまじき事共に有之候となり
一、平太左衛門殿、台詞を蒙られ候御禮として、寛政年中参府致されし時、松平越中守様に召て、御目
見仰付られ、段々御尋の末、郡政の儀は如何に取計ぞと御尋有之候處、此儀兼て郡代に任せ置候
間、御用の儀御座候はゞ、郡代を召上せ可申と御答申上られ候に付、去ば町方の儀は如何にと有之
候へば、是又町奉行に任置候間、御用の儀有之候はば、町奉行を召上せ可申候と申上られ候により、然
らば其方は何事を取計申候ぞと仰られければ、容貌を引正され、兼て老人役を務申候間、越中守よ
り申付候儀、宜からず候へば私手切に差返申候と御答申上られけるにぞ、公手を打て大に我折られ、
聞しに益たる老人なり、吾天下の大老として小事に目を付、平太左衛門に腸を見られたりと、甚御
慙愧成れ候となり
一、平太左衛門殿、人となりは威儀厳重にして、物事を假初に致されず、若年の時より物情を鎮伏さ
れ候器量有之候て、上下敬服候となり、宗孝公御代御前様静證院様夏向隅田川へ御舟遊され候に、毎
度御供の人々に御酒を下され候、他の御小姓頭御供の節は御女中取懸申候て迷惑に及ばせ候事
共、度々有之候處、平太左衛門殿此時未だ十八九歳にて御座候か、御供を致され候には、其威儀に恐
れ候て、右様の儀は一度も無御座候、去迚又圭角にして御遊の興を妨られ候氣色は毛頭無之候、又
八月十五日御大變の節、生田又助御小姓頭御供にて有之候が、斯る折に平太左衛門有之候はゞ、若年
ながら相談を可致ものと申候なり、又助は平生腹悪き男にて、常々は平太左衛門殿にも中悪く
有之候に、此の場に臨み、ヶ様に申候は頼もしき人體故と聞しなり
一、平太左衛門殿は御奉公申上られ候様は、神明に懸て御為の儀を計られ、身用心、負け吝み等或は人
の思わくに引合れ候儀一切無之、又親族怨讎たりとも御用に可相立人物に有之候へば、無頓着取用
られ、依怙贔屓の仕方毛頭無之候、常に烈しく君上を畏られ、御仕置筋等詮議致され候に、毎も思
召如何在せらるべきやと申され候、されば既に決断を致され候て、伺申上られ候に至候ては、少も
御機嫌を不省、存分言上致され候て、是非その説を申達られ候、又御役人へ應接致され候處は、厳酷
の仕懸に有之、烈く察討を致され候て、容易に其言を取上申されず候、将又一身を處られ候處は、飽
迄威権を卑下して、榮満を謹み、君恩に矜候仕方毛頭無之、猿樂を催され候ては、必ず鳴方の内、一殊
は略式を用られ候、總て要路に居られ候事四十一年、身を忘て國を憂ひ、末年に及ばれ候ても、一
切怠慢の儀無之、僅の書付を致され候にも、必草稿を立られ候となり、其精神氣魄誠に天の命ずる
所にて、古來稀なる人傑にて有之候
荻角兵衛記録○或別に堀氏行状を示ず、此と大同小異、此は九條、彼は七條なり、今此を以を収て彼を略す(厳識)