一、霊感院様(重賢)御代、明和年中、江戸大火の節、已に御隣家迄焼來候へ共、上には少も御騒遊されず、御仕
舞遊され候て、御座遊され候由、さて龍の口も御焼失に及び、未だ火しずまらず、盛に焼ける中、
御國元へ御飛脚立けるに、御物書其状を認けるに、手ふるひて一向書けざりしかば、堀大夫左様の不
埒の事やあると云て、おつとつて書れける故、矢の如く速に相認め、平生紙面よりも猶見事なり
とぞ 雲从堂秘話 おっとる(押し取る)という古語、熊本では現在でも使われている。
一、堀大夫居間の庭には、田を作らせ、則百姓共作す様に、草も一番、二番抔と取、其外少も替らぬ様に
作らせ、朝暮に其様子を見られて、ためし申され候由となり、又作る實の悪き時は、夜人知らぬ様
に起て袴を着、手水を遣ひ、獨表居間に出られ、何を祈らるゝとは知らねども、夜明る迄も屹度すわ
り、何かい祈らるゝ様子となり、又家来下々に至る迄、脇へ出て誇がましきこと無き様にと、毎月初に家
司役、目付役呼出され、厳重に示され候は、御家老を我勤め居る也、家來共が自ら御家老の様に思
ふてはならぬぞ抔、申されしと也 同上
一、堀殿、或時政府より笞刑に用る杖を駕の内に入れて歸られ、玄關より自身提て奥に入られ、老女へ
今日は辰次家来手島孫之丞子に馳走をするぞ、肴抔出し酒を呑せよとて、十分酒肴をたべさせ、よき機嫌に成
りたる時、右の杖にて我尻べたを一パイに打てと申付らる、恐れ憚りながらも酒のいきにて一パイに
一打々ければ、今一打々てと申さる故、又打ける、其時辰次十四歳にて子供心に思ひし事、今に忘れ
ずと、七十餘歳にての咄を勝野某聞ての話なり、大夫御政事を大切にして、人を用らるゝの厚きを、
此事にて知るべきなり 遺秉集 尻べたという言葉はさすがに最近は使いませんが・・・熊本弁かと思っていました
一、學校起りし時、文武に付ての賞罰取調、堀勝名より伺ひ奉しに、公受ひき玉はず、家中の者共兼々
禄を遣し扶持し置事何の為ぞ、文武の業をも勵み、治亂の用に立ん為なり、然れば文武をなし、異
日國家の用に立んと、銘々心懸るは士の家業、當然の事なり、夫を精出したりとて、改て賞するに
及ぶべき事かはと仰せられしかば、勝名猶申上げるは賞罰の二つの相離るべからざる公の知し召所也
今師の教に従はず、文武をも怠り、或は倡ひ玉ふ公の旨に背き、館榭にも出ず、打過る者あらば、
必罰なくんば有べからず、又公の旨に従ひ、師の教を守り、文にも進み、蓺術をも上達せんには、
賞なくして叶べからず、館榭を建て、文武を倡ひ玉ふに、賞罰を以て褒貶をせずんば、倡ひ玉ふ
主意立難かるべし、殊に罰ありて賞なきと云は、勝名等が知る所にあらずなど、様々に争ひ奉り、
日々に罷出て、凡三日程争奉りしかども、堅く前説を取玉ひて、終に受ひき玉はざりければ、勝
名も力及ばず、重き職掌をも命ぜられし身の、斯く申事をも用ひ玉はざる上は、職を辭するの外ある
ベからずと引入しかば、公此由を聞召驚せ玉ひ、今平太左衛門が引入てなるべきや、意地強気男な
り、ヨシ/\先の事は負てとらする程に、早く出て勤むべしと、人して仰遣はされしかば、勝名も
本の如く働たり、此事いつとなく漏聞えて、素餐を耻ぢ、文武の賞の有難さ、一しほ増て一統國家の
用にも立たまほしく勵み合ふ士風とはなりぬと、辛島翁の物語なりき 聞まゝの記
一、堀執政の事は、銀䑓遺事に委しければ記すに及ばず、されども人の語傳へぬ聊の事を、一二思出し
ぬ、田中某と云御醫師、五月の比、執政の許にて、時ながら日和にて私共病家を廻候に仕合と申けるに
執政眉をひそめて、其方は日和を好まるれど、ヶ様にては百姓共難儀なるべしとて、長大息せら
れしとて感じ語りし、實に執政の心なり、一ッ事を以て推量るべし、執政容貞厳にして深密に瓣舌静な
りし、いつの事にや君意に違ひて怒り玉ひ 紫翁に其事物語玉ひければ、御意に違なば御手討
□□□□御請申て、執政に参り、逆鱗甚し、かくせよと申せし時、少も驚く體なく、只謹て黙然た
りと聞、實事なるや疑し 残疑物語
海の武士団 水軍と海賊のあいだ (講談社選書メチエ) | |
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内容(「BOOK」データベースより)
中世日本、地場の海を「ナワバリ」として、航行する船から通行料を徴収し、「海賊」として略奪した人々がいた。「水軍」とも「海賊」ともつかぬ“海の勢力”。漁業だけではない海の富とはなにか?「流通」の民に注目することで、網野史学を深化させる。