阿蘇氏を勉強している中で、玄与日記を再度読みたいと思いコピーを一生懸命探しているが、なかなか見つからない。
全文どこかにUPされていないかとぐぐってみたが、そうは問屋がおろさず・・・ただ鹿児島大学のサイトに上記写真が掲載されていた。
この玄与日記とは、近衛信尹が文禄三年四月後陽成天皇の勅勘を得て、薩摩の坊津に配流となったが、慶長元年に勅許が下され帰京するにあたり、黒齋玄与もこれに随伴しまた薩摩へ帰国するまでの記録である。
黒齋玄与とは阿蘇惟前の嫡子惟賢のことであるが、惟前の父・惟長が肥後の守護職たらんと大宮司職を弟・惟豊に譲って菊池氏を継いだ。しかしこれがうまくいかず再び大宮司職に戻ろうと惟豊を攻めたが失敗した。惟前も同調しての事であったが、堅志田城の戦いで敗北した。
惟賢も父・惟前に伴われて島津忠平(義久)の許へ逃れた。その後の消息がこの玄与日記によって知れるのである。
新撰事蹟通考巻之十八、系圖之六「阿蘇」に惟賢について次のように記されている。
惟賢(阿蘇内記)
穪新里 賢又用堅字國訓相通 後祝髪號黒齋玄與 惟賢従居甲佐穪阿蘇内記 惟將之姉之子也 天正十三年乙酉秋島津兵庫頭忠平來責阿蘇益城城
惟賢諸書多作惟前誤也早属忠平 其後阿蘇領悉為薩摩之旗下 十五年夏豊臣秀吉征九國忠平退豊後府内次玖珠郡野上招惟賢 委導惟賢擻道遂敵饗薩
軍 鎮西悉平明年惟賢往薩摩永止矣 其後贈阿蘇誓書
誓書とあるのは上記文につづく「起請文」の事であると思われるが、阿蘇大宮司・阿蘇惟光にたいしての天正十八年卯月の天罰起請文である。
この起請文の中では阿蘇氏ではなく宇治氏を名乗ったうえで「某遠国(薩摩)に逗留仕候・・・」とある。この時期島津忠平(後・義久)の許に在ったことが判るが、薩摩へ下った詳細な時期については定かではない。(天正十五年か)
島津義久は歌道をもって細川幽齋と親しい間柄である。文禄四年幽齋は秀吉の命により薩摩・大隅・日向の検地の為に薩州を訪れている。
この時期坊津には近衛信尹がおり、当然のことながら旧交を温めたことであろう。
黒齋玄与も御目見の機会があったかもしれない。慶長元年信尹の帰洛にあたっては幽齋が早々に面会していることが兼見卿記に伺える。
菊池武経
阿蘇惟憲---+---惟長--------惟前---惟賢(黒齋玄与)
| ↑
| +-----●
| |
+---惟豊---+---惟将
|
+---惟種---+---惟光(大宮司)
|
+---惟善(阿蘇神主)
付け足し:
文禄四年幽齋は島津義久の家来・竹原市蔵なる少年を貰い受けて連れ帰っている。
竹原氏も惟賢と同様宇治氏であり阿蘇氏の庶流である。惟賢が薩摩に下るとき随伴したものであろう。のちに墨齋玄可と号するが、旧の主黒齋玄与に通ずるよく似た名乗りである。その竹原氏は宝暦期、明君細川重賢に堀平太左衛門を推挙した竹原勘十郎の祖先である。
薩摩へ下り、幽齋と共に京洛にあり、忠興の豊前入り、忠利の肥後入り共に随伴して竹原氏はなつかしい父祖の地へ帰ってくるのである。
時代の巡り会わせが面白い。
(玄与日記の捜索は四日目に入るが依然として所在不明である。再度図書館へ出向いてコピーした方が早い気がする。)
追記:ぴえーる様からコメントをいただき、近代デジタルライブラリーにあることをご教示いただきました。深謝
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879776/348