1619年(元和五年)
・豊前では、當時ディエゴ加賀山隼人(興正)なる者の赫々たる殉教があつた。前年、領主の越中殿
は、彼と一家の者を全部ひどい小屋に監禁した。ディエゴは、其處で殉教する覺悟であつた。
越中殿は、豫て将軍の命令を求め、待つてゐた。(註24)大殉教の後、政廳から歸ると、彼は隼人に使を
遣り、罪科十三條、即ち理由を添へて死刑の宣告を傳へた。その中最後の一條が十代であつた。
それはキリシタンなるによるといふのだあつた。死者はディエゴに之が主たる原因で、戒心
すべき唯一のものであり、彼の釋放は棄教すると否とにかゝつてゐるといつた。
ディエゴは、彼等に感謝し、夫人と娘を呼び寄せて、聖なる最後の教訓を與へた。次いで、彼
は十字架の下に平伏し、世の救主、及び聖母に自らを薦めた。彼は、彼の精神的師である、グレ
ゴリオ・デ・セスペデス神父の尊き贈物である洋服と美麗な修道服を着け、小船に乗つて刑場に
行つた。同國の城下町小倉から一哩下つた。ディエゴは、到着するや修道服を脱ぎ、同行の一キ
リシタンに之を與へた。次いで、彼は履物を脱ぎ、跣足で丘に登りたいといつた。遂に、彼は劊
手の手に渡り、致命の一撃を受け、十月十五日、五十四歳で落命した。(註25)
・(註24)
ディエゴは、或る日、領主に次の如く言った。「殿様は手前が地獄に行くことをお望みなさらぬでせう」
越中殿は答へて、「何故ぢや? 若し、私が地獄へ行つても、私と一緒に來ては相ならぬ、私が愛しい
と思ふなら、良臣らしくするがよい。」と言つた。
・(註25)
彼は摂津ノ國、高槻の城内に生れた。十歳の時、彼は、ルイス・フロイス神父の手で先禮を受けた。彼は、
他のキリシタン達の父のやうで、またイエズス會の大切な保護者であつた。
彼の運命を羨んでゐた妻のマリヤは、この口惜しさを管區長に書送り、その中に日本の諺を引いた。
「空手で寶の山を下る者が乞食をして暮すのは當前だ」
小倉教会の殉教者“ディエゴ加賀山隼人”について(写真とも・小倉カトリック教会HP引用)
(了)