津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■蓮政寺絵図

2018-08-19 10:21:19 | 史料

 熊本に唯一ある百貨店「鶴屋」の裏側に、とてもお寺とは思えない近代的な装いのビルがあるが、今回取り上げる「蓮政寺」である。
加藤清正の叔父にあたる加藤清重の菩提寺として、慶長三年に建立せられたとする。

   道の反対側が鶴屋百貨店、建物左手は蓮政寺公園が広がり、小泉八雲旧邸が移築されている。

今般ヒョンなことでこのお寺の絵図が売りに出されていることを知り、内容物が判らないまま購入の手続きをした。
厳重な梱包の郵便物が届き開いてみると、桐の箱が出てきた。中には墨書彩色された絵図が入っている。
時代も作者もまったくわからないのだが、「安巳橋通り」という書き込みから、安巳橋(安政橋)が出来たのが安政四年だとされるから、それ以降のものだということは判る。
藩政時代はこの一角に膨大な寺地を有していたが、西南の役の被害を受けたと思われるし、第二次世界大戦の熊本大空襲の時は焼失しているようだ。
お寺の敷地の一部は、鶴屋百貨店の敷地に取り込まれ、道路が作られて「蓮政寺」の敷地は現在では1/4程になっているのではないか。鶴屋百貨店は昭和28年6月28日の熊本大水害で地下及び1階が水没する被害を受けたが、実はその年にオープンしている。
事実の確認をしなければならないが、どうやらこの一角の区画は、鶴屋百貨店の建設に当たり整理され現状のような状態になったのではないかと推察される。表通りは鶴が飛び来る大きな屋敷「鶴屋敷」が在ったため「鶴屋」の名が付いたとされるが、裏手は広大な墓地が広がっていた。その墓地が整理され、百貨店の敷地に取り込まれ、裏手が市道が新たに作られた。
幕末我が家は此の近所にあったし、この絵図がいろいろな空想をもたらしてくれる。

             

                 正面道路に蓮政寺通り(現・駕町通り)の書き込みがあり、山門から真正面にお寺の建物と庫裡(?)が見える。
            朱色が施された部分は墓地である。蓮政寺通りの上部に手取本町、下部に安巳通りの書き込みがある。
            左手に見える木立や石垣は熊本城の馬具櫓・書物櫓か?

                                    

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■細川家史料に見える「相良清兵衛事件」(4)

2018-08-19 06:27:11 | 史料

 5718 八月五日木下延俊宛書状

  ハ月三日之御飛札、五日ニ拝見仕候、如仰小十郎・半兵衛 上使求磨へ被参候、昨日四日
  求磨へ著之由申來候、我等道ニて懸御目、しはし咄申候、御老中ゟ我等かたへも様子被仰
  越付而、能存候、被仰渡候御事ハ無之候、清兵衛隠居所城ニ成所を誘候、其様子繪圖ニ仕
  参候得との儀、又此中之清兵衛仕方能聞■(届)候へとの御事ニ而候、か様之儀も不苦儀ニ候へ
  共、脇ニハ存間敷間、従我等か田申入候事ハ無御沙汰様ニと存候事
 一清兵衛ハ召候ニ、人多ニ而罷げ候段被聞召、稲葉美濃殿ニ被仰付、箱根關所ニ而上下を分、
  清兵衛ハ刀脇指迄取候而、江戸表美濃殿下屋敷迄はや参候由、大坂御奉行衆ゟ一昨有被仰越
  候事
                 (中略)
 一壹岐守事ハ家中之者と出入ニ而む御座候、清兵衛儀年月不届候故、壹岐守致言上、清兵衛
  身躰果申度との御そしや□□候間、生駒殿・石州なととハ替り申候間、別儀有御座間敷候、   生駒高俊   家中騒動にて改易
  清兵衛何事をか可申出候へ共、兎角求磨中之事を此中迄ハ清兵衛儘ニ而壹岐守儘ニハ成不   石州・池田輝澄   同上
  申候間、是又謀叛悪逆之事も有御座間敷と存候事
                 (中略)
 一清兵衛罷登候時、跡へ歸可申かと被懸御心候由候處ニ、我等心ニも左様ニ存候故、送舟二
  艘申付、使之両人差添、清兵衛不存様ニ大坂迄送届、扨、求磨境道筋へ晩を置、老人を不
  審を掛、きりしたんかと申付改候へと堅申付候、其段々江戸ニ而聞召、御満足との奉書被
  下候、可御心安候、恐惶謹言
       八月五日
       木下右衛門様
            御報

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