津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■井田衍義・垣塚しらへ 郡府舊記 二十(9)

2018-08-18 10:30:36 | 史料

 六七五
   在中御免之者之事
一山伏熊本  一こも僧同
 右之分は頭々立札を持御郡へ罷出候事
一出家 山伏 社人
 右在々旦那廻り御赦免之事
一川祭配札 一比丘尼 一ひしやきたゝき
一手すゝ 一座頭 一ごぜ
一合藥賣 一鉢開
 右之分在々へ参候儀御免ニて御座候へ共、御所務半ハ御
 停止之事

 六七六
   鶴崎筋人馬之事
一公用幷江戸へ八代みかん被指上候節、又ハ江戸御上下之
 砌、人馬御郡役ニ被仰付候、右之外御用之人馬之事、定之
 賃銀を被下被召仕候事

 六七七
   死人跡目之事
一相果候者之子、歳十五ニ成候迄ハ、如常百石ニ四人扶持
 可遣事
一不届事無之者之子、歳十五ニ成候ハヽ、跡式遣可申事
一子も無之女計有之者之儀は、一年扶持方遣其後は心儘ニ
 可申付候、但所務半ニ相果候者之儀は納取候應所務扶持
 方可遣事
一子も無之女他國ニ親類有之者、他國ニ参り度と申者ハ可
 遣事
一子々有之者相果、其跡式扶持方ニ申付候者之儀は、何時
 相果候とも役儀申付間候事
一子々無之者相果候跡之儀は、勿論何時相果候とも役儀申
 付間敷候事
一討死之跡は幼少なる子ニても跡可立事
一奉公忠節有之者は、様子ニより討死同前ニ可申付候事
 右之ことく可申付者也
  寛永十五年十二月十日 妙解院様御印
   奉行中右同前御書出      奉行中
  寛永十八年九月廿一日 眞源院様御印
                  奉行中

 六七八
   病死御侍中へ御知行被遣様覺
一八月より十二月迄之間病死仕候者上知之事、嫡子各別御
 知行被遣置候者、親々跡式冬中ニ被仰付候へハ、親々物
 成共嫡子え被為拝領、嫡子之先知ハ物成共ニ被召上候事

 六七九
   新知・御加増知物成被為拝領之事
一新地御加増被為拝領候事、十月中迄ニ被仰付候分は其年
 之物成より被為拝領候事
一十一月朔日より以後被仰出候分は、其年之物成は不被為
 拝領候、翌年之春田より被為拝領候事
一江戸御供ニ翌年被召仕候分は、年内中被仰出候ても其年
 之物成より被為拝領候事
 右之通寛文九年十二月十二日被仰出之宗、御家老中より
 被申渡候事

 六八〇
   御知行割之事
一高定は其年之土免物成を四ッ六分ニ割定、眞源院様より
 之如く秋免三ヶ年之内下免一ヶ年除キ二ヶ年を撫し、此
 免ニ當り申村を割可申と御奉行衆へ被仰渡候
 撫免三ッ七歩五朱
 一四ッ三分壹朱壹厘より上ル
 同三ッ八分五朱
 一四ッ四分貮朱六厘迄
  右之通寛文十年五月相極なり
  本之四ツ六歩ニて渡來候得共今度御参談有之、當秋よ
  り新地御加増幷御蔵米渡知行物成高、御役料一つ物成
  共京舛四つ成ニ〆相渡か申候、尤只今迄之通、秋物成
  三ヶ年之内下免一ヶ年除地割仕候てハ物成減、何レも
  不勝手可有之候間、向後は貞享元年之下免知行替え被
  下候通、高免下免を六ヶ年撫京舛四つニ〆、地割仕相
  渡可申宗候事、元禄五年七月廿九日

 六八一
   御蔵米を以御知行物成被為拝領候算用合之事
一高百石
  物成四拾六石   京舛四ッ六分
  外ニ
  壹石三斗八升   三ノ口
  合四拾七石三斗八升
    内
   四斗六升    一ノ口御代官へ被下候分
   壹斗五升    小庄屋給
  残て
   四拾六石七斗七升

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■今一つの米田家のお墓

2018-08-18 07:34:18 | 歴史

 以前、熊本県大津町在住で米田家のご家臣のご子孫であるI様からご連絡をいただき、慶長十二(1607)年細川家を退去し、同十九(1614)年には豊臣秀頼の招きにより大阪城に入城した是季が、ある時期、滋賀県大津市にある西教寺に一時身を置いていたのではないかとご教示いただいた。
其後元和八年(1622)の春忠利公の招きにより帰参しているが、その間の詳しい行動は謎の中にある。

この夏Iさまは、その西教寺の塔頭・徳乗坊を訪ねられ、米田家のお墓や御位牌などを確認され、今回多くの史料(pdf)を頂戴した。
厚くお礼を申し上げる次第である。

 
                     五基並ぶ滋賀県大津市西教寺徳乗坊の米田家のお墓。右手奥に琵琶湖が遠望される。

                                

                     御位牌(表)                     御位牌(裏)

米田家は細川家代々三家老(三卿家)の二座を勤め、長岡姓の名乗りをも許された重臣である。
大津の西教寺に與七郎是季(興季・監物)、嫡男・是長、その弟・是正、是長の娘・吟(細川忠利末子・南條元知室)、長岡元知と吟の子で是長の継嗣となった是庸の五つの靈が祀られている。施主についてはよくわからないようだが、是庸の子・是直か?
御位牌の裏面にはI様の釈文として次のようにある。

 肥後國隈本城主細川の家臣長岡監物殿の先祖某は、当坊に在りては厚き由緒有るを以て、嘗て当山に五碑五基を造立したり。以来、彼此は互いに書簡の贈答なして今に絶えざるなり、然るに去る文政九戌の年に、当坊焼失に及ぶ。之に依り、為に再建料として白銀十五枚の喜捨、之有り。其後猶ほ復た、為に香花料として歳毎に金百疋宛て送り来るなり。彼の先祖の霊名の忌名に及んでは、怠慢無く回向せしむるものなり。

米田家の菩提寺は、熊本市坪井の旧米田家(現・必由館高等学校)の前にある見性寺だが、これは是季の父是政の諡号・見性院勲斎玄弘に由来する。是政は慶長五年岐阜で戦死しており、墓地は岐阜城下乾徳寺にあるという。
又是季の二男・是正は熊本市の法成寺に葬られたとされる。


  米田家関係略系図 (10/17修正)

             細川忠利-----------長岡元知                   
                         ‖----是庸
                       +---   |
                       |      ↓
 米田求政---+---是政-----是季---+---是長---+=====是庸-----是直
      |         |
      +---是門       +---是正無子断絶

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