津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■水無川に鮒・・?

2018-08-14 14:17:40 | 徒然

 我が家の近くを流れる健軍川は、お天気が続くと水が干上がってしまう水無川だ。
それでも橋の下には、長さ10m程、深さ4・50㎝の水溜まりがあり、過日15㎝程の鮒が数匹泳いでいるのを発見した。

以前夕立で相当水かさが増したが(2m程)、その時上流からでも流れてきたものであろう。
今日改めて眺めてみると、溜まりは二つに分かれしまい水面域も随分狭くなり、深さも浅くなっている。
過日TVで溜水は一日5㎜ほど蒸発すると言っていたが、連日の猛暑でスピードが速かったと思われる。
しかし今日無事に二三疋の魚影を確認、今晩には15号台風が九州上陸の兆しがあり、雨も連れてくることだろうから、一安心という感じ・・・
下流側の川底は紫色の花をつけた(名前知らず)花が咲き乱れて花畑状態だが、こちらにも慈雨になること必定・・・
午後2時過ぎ、風鈴がにぎやかに音を立てているが、台風15号の直撃を受けそうな気配、お手柔らかに願いたい。
台風通過をきっかけに少々涼しく成ってくれれば有り難い限りだが。

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■井田衍義・垣塚しらへ 郡府舊記 二十(5)

2018-08-14 08:50:40 | 史料

 六五二
一古見圖帳之内天正・文禄之比之檢地帳相見候由、其比ハ
 加藤家之領國ニては無之、いつ比ニて如何様ニて傳りニ
 相成居候哉之事
  此儀いつ頃如何様之譯ニて傳り申候と申儀相分不申候
  事

 六五三
一二ノ口米は寶暦四年御免、天明・寛政之比御郡代御救立
 引受居候比二ノ口米上納有之、其後又御免二てハ無之哉
  此儀、二口米ハ享保二年江戸御類焼付て、同三年より
  五ヶ年の間二ノ口米上納被仰付、其後延付ニ相納來候
  處、橋谷重蔵在勤之節存寄相達候ニ付御免被成、猶又
  延享四年より五ヶ年之間上納被仰付候、其後凶年之年
  ハ御免又ハ上納被仰付候處、寶暦六年水夫増米・ニノ
  口米ともニ御土免受除候處ニ、被成御免御損引願出候
  村々ヘハ追て物成百石ニ米貮石宛被為拝領候、同七年
  右同断、八年九年は通り方損方共御免被成、同十年よ
  りハ年々二口被成御免候、享和三年受免被仰付、年限
  中二ノ口御免ニ相成、今以其通候事
   但、御上金為寸志、先年御郡より二ノ口米丈ヶ之米
   高、寛政元年より同四年迄差上申候、此四年分ハ津
   波ニ逢候所々、又は凶作等ニて延方願出、其後年割
   上納等相成、此後は二ノ口米上納と申候ては無之、
   御物成ニ懸割付ニ不致候得共、手永中二ノ口米丈寸
   志ニ差上候と相見候事

 六五四
一水夫米之事、御参勤・御隣國長崎・天草御用渡海の御船
 /\、在役ニて高千石ニ夫柄一人宛出申筈ニ極候處、海
 邊ニて無之御郡/\より指出候ても船方の働不相成候ニ
 付、高百石壹石五斗宛出米定ニ相成居候、然處其通ニて
 ハ下免之所迷惑ニ及候ニ付、寛文八年より右之通壹石五
 斗を算用ニ〆、當時は物成百石ニ三石六升六合宛出し、
 右之出來を以水夫給米又ハ雇賃米等ニ相渡候得共、惣躰
 近年御用多、船之渡海繁ク候ニ付、右之賃米ニてハ船々
 水夫飯米・跡扶持幷定抱之水夫給米不足をいたし候ニ
 付、元禄十三年より増水夫米被仰付、其時より始て被召
 上、同十五年以來年々上納被仰付候事

 六五五
一三ノ口米之事、前廉ハ物成百石ニ五ノ口を加へ納來候
 處、寛文八年古舛を今舛ニ改り候ニ付、右之違目算用相
 ニ成り三ノ口米ニ相成候事

 六五六
一御知行割之事、寛永年中より正保二年迄ハ御土免四つ割
 ニて有之、正保三年より寛文四年迄ハ前三ヶ年秋免之内
 下免一ヶ年引、二ヶ年撫四つ成割と相見、寛文五年より
 又御土免四つ成割、同八年八月より京舛四つ六分割被仰
 付、秋免四つ三分五朱餘、四つ四分餘候處、前年二ヶ年
 見合四つ三分七朱ニして貮分三朱程之空免を加へ、四つ
 六分之割方之由候處、延寶年中より秋免三ヶ年撫之内下
 免一ヶ年引、二ヶ年撫貮て四つ三歩七朱之割方被仰付、
 元禄五年より秋免六ヶ年撫四つ成割被仰付、文化九年迄
 同様ニ候事

 六五七
一高五拾壹萬九千八百九拾壹石四斗壹升五合
         肥後之内、球磨・天草を除十二郡高
一同四萬三千九百六拾壹石貮斗九升六合
         球磨・天草郡高
 合五拾六萬三千ハ百五拾貮石七斗壹升壹合
         肥後國分
一高壹萬百八石五斗八升五合 豊後國三郡分
 合五拾八萬三千九百六拾壹石五斗壹升六合
    内
  四萬三千九百六拾壹石五斗壹升六合
         球磨・天草分
 残て 五拾四萬石
一高七拾貮萬九千六百拾五石七斗四升八合八勺四才
           肥後國球磨・天草を除十二郡現高
一同貮萬四千百貮拾三石三斗三升貮合九勺三才
               豊後國三郡現高
 合七拾五萬三千七百三拾九石壹斗壹合七勺七才

 六五八
一御國中四ツ六歩ニて御家中御知行地方渡りを正徳三年御
 蔵納被仰付候節、御給知加り四つ六歩ニ相成申候、尤其
 砌何朱何厘之所ハ年々程ニ増減有之候得共、是以其譯ハ
 分兼申候、右以前延寶八年御給知惣御蔵納被仰付、天和
 三年被返下候處、正徳三年猶又前文之通被仰付、延寶・
 天和之間三ヶ年之御免も四つ六歩餘ニて候事
 

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■爰元は近年覚えぬ暑さかな・・

2018-08-14 08:08:43 | 徒然

 寛永十七年という年は随分暑かったようだ。
六月十二日江戸から帰国した忠利は、あちこちに帰国の挨拶の書状を発しているが、「爰元ハ近年覺不申暑さにて御座候」と書いている。
佐賀藩主鍋島勝茂も途中で細川家の行列を追い越して帰国しているが、後「霍乱」を起こしたらしい。
今でいうところの「熱中症」であろう。勝茂からの書状(6月28日)の返事に忠利は
                 貴様も御霍乱氣之由、永々江戸ニ氣を詰候、其上五十を越候而ゟハ
      冬も霍乱心ニ覺申候
  尚々書にも
      御霍乱之由、事之外成暑さにて御座候間、彌御養生専一存候、以上    とある。

天草島原の乱(寛永十五年二月廿七日落城)で鍋島勝茂は軍令に反して抜け駆けをした。これが発端となって全軍が城内になだれ込み落城に至っている。
勝茂が指示しての抜け駆けともささやかれるが、軍令に即して「蟄居」の処分を受けている。
書状には 久々之御入國 とあるところからすると、蟄居により江戸に留め置かれたのであろうか。暑い中の道中であったのだろう。

今年の暑さは全国津々浦々のことだが、熊本の28日連続の猛暑日もかすんでしまっている。しかし熊本市内は昨日ついに、観測史上一番熱い気温38.1℃を記録した。こうなるとただただ家に籠るしか手がない。
我が家のやや古いクーラーは、連日24時間フル運転の状態である。電位代もさることながら、壊れないで動いてほしいと念じている。

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