先に蓮政寺の周辺地図をご紹介したが、右上隅に我が家が見える。当時の我が家は最後の当主・又太郎が嘉永四年に亡くなった先代の跡を十四歳で継いでいるから、扶持米+切米取の身分である。家屋敷はそのままでということだったのだろうか?
ふと向こう三軒両となりの住民はどのような人だろうかと考えた。どういう基準で配置されたのか、どうも組の下に一堂にこの場所を占めているとも思えない。
左隣は尾藤金左衛門家の屋敷だがこのお宅の初代は同名・金左衛門、讃岐国十八万石領主で後秀吉により勘気を蒙り領国召上天正十八年切腹を仰付られた左衛門尉知宣の二男である。寛永十二年七月細川忠利に召出され知行三千石、その恩に報いようと寛永十五年二月廿七日島原一揆に於いては討死している。この絵図は安政五年以降のものとされるが、小姓頭、番頭、備頭などを勤めた8代目の助之丞かと思われる。
ここは下屋敷(?)でもあろうか、本宅は現在の九州郵政局がある場所にあった。
反対隣は坂本仁兵衛、こちらは代々仁兵衛をなのり御番方100石のお宅である。詳細不明。
尾藤家・我が家・坂本家の裏手は井上加左衛門の居宅、安政五年二月~万延元年十二月・奉行副役、文久三年三月~慶応三年十一月・奉行等を勤めている。侍帳には御鉄炮頭三百石とある。肥後人名辞書には「名は政房、加左衛門と称す。世禄三百石、少時窮乏因苦し人の書を借りて誦讀せり。後擢でられて奉行職となる。明治九年六月十四日歿す、墓は高麗門禅定寺。」とある。
坂本家の先となりは三池尉右衛門の居宅、中原氏流大友氏支流三池家の末裔で、初代式部少輔・親家(左馬之丞)は旧 加藤清正臣・二千四十八石(加藤家侍帳・時習館本)、後細川氏に仕えた。この地図にある尉右衛門は 9代・久摩之允(尉右衛門・丈平)御近習組脇 三百石、文久元年九月~文久三年五月 奉行副役・後近習着座、元治元年(御近習触頭組脇)~慶応三年九月 鉄炮語十挺頭、慶応三年九月~明治三年十月 八代番頭 明治三年七月大平と改名している。
向こう三軒の左端は山崎傳左衛門の居宅、この人は 11代の直彦(養子・佐藤仙九郎七男 久之允・傳左衛門)川尻御作事番 百五十石であろう。その息が肥後六花「肥後花菖蒲」の祖である山崎貞嗣であり、山崎貞士氏著「東肥花譜」によると貞嗣は水道町で生まれたとあるから、この地図にある御宅であろう。
真向いには平野八十郎家、 8台目の市丞(八十郎)百石であろう。手元に先祖附けがないので詳細は判りかねる。
父親は清右衛門は軍学師役(百石)であり、「諸師役流儀系図」では「楠流軍学師範--栗野又兵衛跡 天保十三年七月」とある。
その右隣は沢村脩蔵家の居宅、沢村大学の弟・九郎兵衛を初代とする御宅である。この人物は10代脩蔵、木下伊織組御番方一番 四百石、(明治元年十月~明治二年二月 奉行副役、明治二年二月~明治二年五月 奉行・後徴士)である。
父親の宮門は嘉永五年十月(大組附)~嘉永五年十二月 高瀬町奉行・御側取次二転、肥後人名辞典に「字は子寛、宮門と称し、西陂と号す。禄四百石、穿鑿頭、高瀬町奉行たり。又佐藤一斎の門に入り王陽明の学を修め、時習館助教となる。安政六年八月十六日没。享年六十。」と紹介されている。
この絵図は制作年ははっきりとはしないが「安政四年比か」とされているが、父・宮門の没年が安政六年であるにもかかわらず、その名ではなく脩蔵の名前が記されていることからすると、宮門の死後という事であり「安政六年八月十六日以降」となる。新たな発見である。
この辺りは現在の水道町交差点のあたりである。熊本で一番交通量の多いところかもしれない。我が家の跡を偲ぶよすがもない。