津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■向こう三軒両となり

2018-08-20 14:35:31 | 地図散歩

 先に蓮政寺の周辺地図をご紹介したが、右上隅に我が家が見える。当時の我が家は最後の当主・又太郎が嘉永四年に亡くなった先代の跡を十四歳で継いでいるから、扶持米+切米取の身分である。家屋敷はそのままでということだったのだろうか?
ふと向こう三軒両となりの住民はどのような人だろうかと考えた。どういう基準で配置されたのか、どうも組の下に一堂にこの場所を占めているとも思えない。

左隣は尾藤金左衛門家の屋敷だがこのお宅の初代は同名・金左衛門、讃岐国十八万石領主で後秀吉により勘気を蒙り領国召上天正十八年切腹を仰付られた左衛門尉知宣の二男である。寛永十二年七月細川忠利に召出され知行三千石、その恩に報いようと寛永十五年二月廿七日島原一揆に於いては討死している。この絵図は安政五年以降のものとされるが、小姓頭、番頭、備頭などを勤めた8代目の助之丞かと思われる。
ここは下屋敷(?)でもあろうか、本宅は現在の九州郵政局がある場所にあった。

反対隣は坂本仁兵衛、こちらは代々仁兵衛をなのり御番方100石のお宅である。詳細不明。

尾藤家・我が家・坂本家の裏手は井上加左衛門の居宅、安政五年二月~万延元年十二月・奉行副役、文久三年三月~慶応三年十一月・奉行等を勤めている。侍帳には御鉄炮頭三百石とある。肥後人名辞書には「名は政房、加左衛門と称す。世禄三百石、少時窮乏因苦し人の書を借りて誦讀せり。後擢でられて奉行職となる。明治九年六月十四日歿す、墓は高麗門禅定寺。」とある。

坂本家の先となりは三池尉右衛門の居宅、中原氏流大友氏支流三池家の末裔で、初代式部少輔・親家(左馬之丞)は旧 加藤清正臣・二千四十八石(加藤家侍帳・時習館本)、後細川氏に仕えた。この地図にある尉右衛門は 9代・久摩之允(尉右衛門・丈平)御近習組脇 三百石、文久元年九月~文久三年五月 奉行副役・後近習着座、元治元年(御近習触頭組脇)~慶応三年九月 鉄炮語十挺頭、慶応三年九月~明治三年十月 八代番頭 明治三年七月大平と改名している。

向こう三軒の左端は山崎傳左衛門の居宅、この人は 11代の直彦(養子・佐藤仙九郎七男 久之允・傳左衛門)川尻御作事番 百五十石であろう。その息が肥後六花「肥後花菖蒲」の祖である山崎貞嗣であり、山崎貞士氏著「東肥花譜」によると貞嗣は水道町で生まれたとあるから、この地図にある御宅であろう。

真向いには平野八十郎家、 8台目の市丞(八十郎)百石であろう。手元に先祖附けがないので詳細は判りかねる。
父親は清右衛門は軍学師役(百石)であり、「諸師役流儀系図」では「楠流軍学師範--栗野又兵衛跡 天保十三年七月」とある。

その右隣は沢村脩蔵家の居宅、沢村大学の弟・九郎兵衛を初代とする御宅である。この人物は10代脩蔵、木下伊織組御番方一番 四百石、(明治元年十月~明治二年二月 奉行副役、明治二年二月~明治二年五月 奉行・後徴士)である。
父親の宮門は嘉永五年十月(大組附)~嘉永五年十二月 高瀬町奉行・御側取次二転、肥後人名辞典に「字は子寛、宮門と称し、西陂と号す。禄四百石、穿鑿頭、高瀬町奉行たり。
又佐藤一斎の門に入り王陽明の学を修め、時習館助教となる。安政六年八月十六日没。享年六十。」と紹介されている。
この絵図は制作年ははっきりとはしないが「安政四年比か」とされているが、父・宮門の没年が安政六年であるにもかかわらず、その名ではなく脩蔵の名前が記されていることからすると、宮門の死後という事であり「安政六年八月十六日以降」となる。新たな発見である。

この辺りは現在の水道町交差点のあたりである。熊本で一番交通量の多いところかもしれない。我が家の跡を偲ぶよすがもない。


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■井田衍義・垣塚しらへ 郡府舊記 二十(10)

2018-08-20 06:49:57 | 史料

 六八二
   田畑高定之事
一本上田壹反         分米壹石三斗
一同中田壹反         同壹石貮斗
一同下田壹反         同壹石壹斗
一同上畑壹反         同八斗
一同中畑壹反         同七斗
一同下畑壹反         同五斗
 右之通御國中之高定、先檢地帳面御座候得共、妙解院様
 御代ニ御國中田畑地撫就被仰付、其村々々惣高を田畑有
 畝ニ割付高相定申候故、村別ニ高定不同有之候ニ付、本
 田畑之分は村々地撫を以沙汰仕候事
一豊後國御領分田畑高定之儀ハ村々不同御座候故、其村々
 古帳面を以沙汰仕候事

 六八三
   新地方田畑高定之事
一上田壹反    分米壹石三斗
一中田壹反    同壹石貮斗
一下田壹反    分米壹石壹斗
一下々田壹反   同壹石
一上畑壹反    同八斗
一中畑壹反    同七斗
一下畑壹反    同五斗
一下々畑壹反   同三斗
 右は寛永十年御國中幷豊後國之内御領分共如此被仰付候
 事

 六八四 
   壹歩五朱御土免より被下置候事
一延寶九年正月廿日被仰出候、御國中打續損毛ニ付御百姓
 共いたみ可申と被思召、御土免壹歩五朱被下ヶ被下候事

 六八五
   鹽上納當り之事
一上壹反ニ付鹽壹石三斗  玉名郡
一中壹反ニ付同壹石貮斗
一下壹反ニ付同壹石壹斗
 右は前々之反當り候也、只今ハ五割増なり、寛文六年三
 月

 六八六
   三斗俵之事
一山奥在ハ熊本御蔵拂三斗六升入ニてハ迷惑仕候付、依願
 三斗入ニ寛文六年九月被仰付候事

 六八七
   あち瓜漬瓜直段之事
一米壹升ニ付あち瓜拾三、つけ瓜拾貮、澁柿壹斗五升

 六八八            
   釣懸舛を京舛ニ改候事
一寛文八年七月廿一日御國中之釣懸舛を京舛ニ被相改候、
 依之是迄三斗六升入ニて候得共、三斗五升入ニ被仰付候
 事
  但、京舛壹石ハ釣懸壹石六升四合

 六八九
   俵之入定之事
一米 大小豆 小麥 三斗五升入
一大麥 粟 蕎麥 胡麻 荏子 稗 四斗入
               寛文八年申七月御觸なり

 六九〇
   御境目之事
一境目之事、川中境目や洪水ニて川筋違申候ても、川ニ付
 候て境目従前々相極申候由、寛文九年四月三日村松太兵
 衛被申候也

 六九一
一御知行割之事、今迄ハ四つ六歩ニて渡來候得共、今度ハ
 参談有之、當秋より新地御加増幷御蔵米渡知行物成高、
 御役料一つ物成共京舛四つ成ニ〆相渡可申候、尤只今迄
 之通秋物成三ヶ年之内下免一ヶ年除き地割仕候てハ物成
 減、何レも不勝手ニ可有之候間、向後は貞享元年子年下
 免知行被替下候通、高免下免を六ヶ年撫京舛免四ニ〆地
 割仕相渡可申旨候事
一右之通ニ付、江戸御供衆幷御供並之衆右之通向後御沙汰
 可仕旨、元禄五年申七月廿八日ひ仰渡候事
 一妙解院様御代寛永十七年迄ハ御土免ニて四つ成之割被
  遣候事
 一眞源院様御代寛永十八年より正保二年迄ハ右同断
 一正保三年より寛文四年迄ハ前三ヶ年之秋免之内下免一
  ヶ年除、二ヶ年之秋免をならし四つ割ニて御座候事
 一寛文五年より土免割被仰付候事
一只今迄御知行割之儀、御蔵納御給知共村々を割崩し、御給
 知も少々高を方々ニて拝領被仕、御蔵納之小高ニ可罷成、
 萬事指支申候、割方算用合之儀、只今迄ハ秋免三ヶ年撫
 四ッ四分餘より四ッ三歩餘迄をふまへ、土免四ッ六歩ニ
 合申候を割申候ニ付、夏方之免合申所無之故、村々を割
 崩集不申候へハ合不申候、夫ニ付小高ニ砕申候、右之仕
 法ハ根元前々より納免三ッ八歩を根ニ仕、三ッ八歩五朱、
 三ッ七分五朱、此両免三ヶ年撫之秋免用申候、只今より
 ハ三ッ八歩を京舛ニ直し、四ッ三歩七朱ならし免ニ貮歩
 三朱上ヶ候て、夫を土免二用、撫シ高を極申候へハ割崩
 不申、何レ之村ニても渡申事成申候、然ハ算用前公義え
 も給人衆も右之割方ニて御損徳無御座候、左候へハ御蔵
 納御給知とも村々砕不申所益有之候ニ付、其段々右ニ御
 郡方村上・奥田・牧野此三人之者共より書上、御家老中
 被成御覧、其後御側衆大木織部殿・柏原新左衛門殿・有
 吉次郎九郎殿・木村半平殿・續源右衛門殿・朽木與次右
 於御花畑億之間、惣て之書附半平殿被成御讀、段々ヶ
 條御尋候て、其時牧野安右衛門申上候ハ、右御知行割之
 儀ニ付御尋ニて申上候、其書附御花畑ニて如此申候得と
 の御意ニて候間、佐渡殿被仰候て書付被成御渡候、左候
 て、右之御知行割之様子、延寶六年午三月従七日ニ御奉
 行衆奥之間ニて、松野殿・小林殿・蒲田殿・平野殿・松
 田殿御郡方五人罷出、右之段々讃談仕、割方算用合と御
 損徳前々より之如く相違無之、村々砕不申候所益有之候
 間、彌右之通相極可申旨相極申候、右生駒殿へ安右衛門
 右之通被申候へハ、於御花畑最前も承申事に候得は、彌
 今以其通ニて候由被仰候事

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