津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■井田衍義・垣塚しらへ 郡府舊記 二十(12)

2018-08-22 12:14:38 | 史料

 六九四
   熊本廻屋敷畝之事
一六百七石餘
      寛永九年、上使御引渡高外ニ相成、熊本之諸
      士屋敷成、萬引高相見申候
一百三拾七石六斗壹升餘
      寛永九年以後慶安四年迄右同断
 合七百四拾四石八斗餘
 右は古來より高外ニ相成居申候、右之高撫壹石一反之積
 ニして坪數大概左之通
 一貮拾萬三千四百四拾坪

 六九五
   開地を御知行被直下候事
一開を差上御知行貮被直下儀は、通例之願にては難被仰付、
 然レとも無據願之筋目有之、開地等仕立、百姓も附居候
 て地居り、地味も本地同前程之開地に候ハヽ、其節々品
 ニより御知行ニ被直下儀も可有之哉、常躰之出作開ニて
 少宛之郡數所々ニ飛散不定之地ニてハ難被叶候、御知行
 割等之儀ハ、御郡間之秘事ニて、國外之人ニは不洩筈候
 事

 六九六
   御國中荒地之事
一高壹萬千百七拾壹石余    寛政四年之改前
  物成五千四百八拾石六斗餘

 六九七
   御知行取惣人數之事
一御知行取九百八拾七人、御蔵米同百六拾六人
               寛政六年之改前
 六九八
   葦北地士之事
一葦北地士三拾人、知行高百七拾石、内四人ハ拾石宛、貮
 拾禄人ハ五石宛、御郡筒四百三拾人分之知行四千五百四
 拾石、壹人貮石五斗宛

 六九九
   三齋様御知行之事
一高三萬七千三拾石 小倉ニて歟 高九萬石 八代ニて歟

 七〇〇
   熊本町人別之事
一男女壹萬ハ百八拾壹人    寶暦四年御改前
一同五拾貮萬五百四拾五人   御國中右同前

 七〇一
   水前寺御茶屋之事                      水前寺成趣園
一惣廻り六百間、畝數九町四反九畝、坪數貮萬八千四百七
 十九坪

 七〇二
一竹部出屋敷、熊本御侍屋敷不足ニ付、寛文十年・同十二
 年・延寶三年より六年迄、追々被仰付候事

 七〇三
馬見原町之儀、寛文八年依願御免ニ相成、月三度宛市立

 被成り御免候事

 七〇四
植木町之儀、元禄八年三月御免之事

 七〇五
一増奉公人初之事、今度人置奉行速水杢右衛門・向坂三右
 衛門・東角大夫三人被仰付、奉公人之出入共差出を以相
 答候様、寛文六年正月一統御觸有之候事

 七〇六
一飽田・託麻両郡之内ハ惣躰地詰り秣(マグサ)無之候ニ付、新開を
 仕候儀ハ御停止ニ被仰付置候事、寛文八年

 七〇七
一御國中惣庄屋之儀、寛永十五年御知行被下、刀を帯候處、
 天和三年より刀を御取上ニ相成居候處、享保十三年葦北
 御惣庄屋依願帯刀被仰付候事

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■向こう三軒両となり(二)

2018-08-22 09:23:41 | 地図散歩

 この地図は成立年を文化十一年から文政元年比とする「49 向寺原・建部之絵図」の右半分ばかりを表示した。
ここでは六代目又之允屋敷が見受けられる。現在の地番でいうと黒髪二丁目26番の一角である。
下にある道路が豊後街道(県道熊本ー菊陽線)、左手の道路が薬園町から万石に至る道路で通称三軒町通りである。
法成寺は家老・米田家の4代目・是長の弟、是正「法成寺雄岩助入」の菩提寺である。
法成寺南側にある百姓地の書き込みがある所は、現在の黒髪小学校である。
久本寺も寺域は狭まっているようだが豊後街道沿いの地に現存する。
南北方向の未記入の土地は、濟々黌高校、並びに熊本大学の校地である。
この一帯は下級武士や切米・扶持米取の屋敷が多く、非常に道が狭く、現在でも運転が下手な人は入ることはやめたがよい。
しかし又之允屋敷の一角あたりに広い火除け地のようなところが見受けられるが、その状況は現在も残されている。
恰好の車の離合場所である。

向こう三軒と言っても、お向かいは切米取の小さな屋敷が建て込んでいる。
隣は横井佐左衛門借置と横井岳之助屋敷とあるが同一人物、横井本家8台目・熊八(佐左衛門・次郎左衛門・岳之助)は御使番・御中老支配 三百五十石、文政十一年三月(使番)~文政十三年七月 高瀬町奉行・後三拾挺副頭を勤めた。

反対隣は荒川政右衛門、荒川家7台目の善勝(後・政右衛門、蕩平)である。天保八年三月~天保十三年正月 高橋町奉行を勤めた。
         (1) 御次御中小姓・御奉行触・御奉行所根取 二十石六人扶持内二十石御足
         (2) 擬百石(病死跡御中小姓)
         
もう一つ隣が山羽牛右衛門、7台目大助(牛右衛門)で御番方・続繁弥組 百五拾石の記録が残る。
先祖は湯浅角兵衛という人物で 、五百石 御鉄砲頭衆(於豊前小倉御侍帳)、鉄炮頭 五百石 御側弓鉄炮頭并組外衆 (肥後御入国宿割帳)だが、寛文九年十月御暇被遣候とある。いわゆる陽明学徒追放によるものである。

背中合わせの裏手は野田禎助の屋敷である。五百石取の野田家の分家筋、4台目吉太郎(禎助)御番方・尾藤多賀之允組 二百石 である。

我が家はといえば擬作100石だが参勤の御供で何度も江戸を上下している。小姓組にあったが出世はしていない。讃州江の島で客死した。
10年ほど前、菩提寺の改葬の際、地下2メートル程の甕棺から黑羽二重の羽織をきて正座した白蝋化した遺骸が見つかった。
お寺のご住職も生まれて初めて拝見したと驚いておられた。火葬場では受け付けてもらえず、墓石の下で土に戻すことにした。

 

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