津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■上田久兵衛書簡=27,000円

2018-08-10 16:14:11 | 歴史

 肥後国熊本藩士 上田休書簡

日本の古本屋で見つけた「肥後国熊本藩士 上田休書簡」、東島辰之助宛 6月9日付 巻紙21行追書9行 15×110㎝ 1通。
高祖父の書状とはいえ年金生活者には手が出ない。早々には売れまいから、少々考えることにする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■片岡宗善家史料の流出

2018-08-10 13:02:24 | オークション

■ 片岡宗善  (南東16-14)    
    1、別所吉右衛門 
    2、片岡新兵衛 
         (1)留守居組・鍋奉行 五十石 (於豊前小倉御侍帳) 
         (2)御門番衆 五十石 (肥後御入国宿割帳)
         (3)御代官衆 五十石 (真源院様御代御侍名附)
         (4)五拾石 (真源院様御代御侍免撫帳)
         (5)御留守居衆・田中左兵衛与 五十石 (寛文四年六月・御侍帳)   
    3、   善次
    4、   新兵衛
    5、   吉右衛門
    6、   直助    天明二年六月:片岡直助(御小姓組)在宅之処勤方繁、度々出方難渋之趣を以引出願
                                     (熊本市史資料編第三編p252在宅願頭書)
    7、   吉之允  御知行被召上候・文化五年十二月十九日 高五十石
    8、   周蔵(新兵衛) 組附御中小姓・横山藤左衛門組 拾石五人扶持
    9、   蘇助
    10、  小熊
    11、  七左衛門(宗善)


細川忠利書状 1通 肥後熊本藩初代藩主 歴史 日本史 寛永十年九月朔日付 片岡新兵衛宛 和本 古文書  細川忠利書状 寛永十年九月朔日付 片岡新兵衛宛 

細川光尚書状 1通 肥後熊本藩2代藩主 歴史 日本史 寛永十八年八月朔日付 片岡新兵衛宛 和本 古文書  細川光尚書状  寛永十八年八月朔日付 片岡新兵衛宛 

細川綱利書状 1通 肥後熊本藩3代藩主 歴史 日本史 寛文元年八月五日付 片岡新兵衛宛 和本 古文書   細川綱利書状  寛文元年八月五日付 片岡新兵衛宛 

細川斉茲書状 1通 肥後熊本藩8代藩主 歴史 日本史 天明八年九月十八日付 片岡直助宛 和本 古文書  細川斉茲書状 天明八年九月十八日付 片岡直助宛 ç´°å·å®£ç´€æ›¸çŠ¶ 1通 肥後熊本藩4代藩主 歴史 日本史 正徳六年二月十八日付 片岡慶太宛 和本 古文書 細川宣紀書状  正徳六年二月十八日付 片岡慶太宛  

朽木内匠宛文書 1通 肥後細川藩 十二月十九日付 奉行所 歴史 日本史 片岡吉之允病気 和本 古文書  朽木内匠宛文書 ( 片岡吉之允病気) 

差紙 1通 子五月九日付 片岡直助 上知高五十石 嫡子片岡吉之允 歴史 日本史 肥後細川藩 和本 古文書   差紙 1通 子五月九日付 片岡直助 上知高五十石 嫡子片岡吉之允 

片岡七左衛門書状 1通 片岡宗善 肥後細川藩 歴史 日本史 四月二十九日付 小熊宛 細川家家臣 和本 古文書   片岡七左衛門書状 片岡宗善  四月二十九日付 小熊宛 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■井田衍義・垣塚しらへ 郡府舊記 二十(2)

2018-08-10 07:03:19 | 史料

 六四二
   右(六四一)ニ付垣塚文兵衛追々しらへ之内書抜左之通
一肥後國十四郡
   内
  貮萬千七百六拾八石九斗七升六合   天草郡
  貮萬貮千百九拾貮石三斗貮升     球磨郡
 殘て
  拾貮郡 四拾八手永九百四拾五ヶ村
   内
  貮拾九ヶ村             託麻郡
  貮百八拾六ヶ村           益城郡
  四拾八ヶ村             宇土郡
  六拾ヶ村              八代郡
  九拾四ヶ村             飽田郡
  三拾ヶ村              葦北郡
  三拾三ヶ村             山本郡
  百拾ヶ村              玉名郡
  四拾四ヶ村             山鹿郡
  六拾七ヶ村             菊池郡
  六拾ヶ村              合志郡
  八拾四ヶ村             阿蘇郡
   貮拾六ヶ村   阿蘇谷
   貮拾五ヶ村   南 郷
   三拾三ヶ村   小 國
   〆
一豊後國之内三郡 三手永六十三ヶ村
   貮ヶ村              直入郡
   三十九ヶ村            大分郡
   貮十貮ヶ村            海部郡
 合十五郡五十一手永千八ヶ村

一田畝數貮萬七千六百七町八反三畝廿三歩壹合
一畑畝數三萬四百貮町七反七畝廿貮歩半
一高七拾五萬千六百五石貮斗六升七合三勺八才
  但、現高ニ宇土分を加へ本行之通
   内
  七拾四萬六百四拾石四斗四合 御上使御引渡御目録前
 差引
  壹萬九百六拾四石八斗六升三合三尺八才 増
   内
  三萬五千貮百五拾三石七斗三升貮合九才
  宇土郡御知行現高引
 殘て
  七拾壹萬六千三百五拾壹石五斗三升五合貮勺九才
   土物成三拾三萬五千四百七拾石壹斗六升九合八才
          高四つ六歩八朱三厘三毛八弗
   受物成貮拾七萬四千百四拾六石六斗三升六合五勺五
      才   高三つ八歩貮朱六厘
一高貮萬貮千七百七拾四石五斗六升七合三勺七才
                    古新地
   土物成壹萬五千五百五拾六石壹斗六升九合六勺七才
          高六つ八歩三朱五毛
   受物成壹萬貮千四百五拾石七升
          高五つ四歩六朱

一天正十五年六月朔日、秀吉公熊本え壹駕を留られ、肥後
 國を佐々陸奥守成政へ贈る、四十九萬石と云、同十六年
 五月十四日成政攝州尼ヶ崎ニて切腹
一天正十六年成政上坂之跡ニは肥後警備として浅野弾正少
 
熊本ニ入、加藤主計(清)正ハ宇土ニ入、福嶋左衛門太夫正
 
ハ八代ニ入、生駒雅楽頭吉一ハ山鹿城村ニ入、蜂須賀
 阿波守家政
ハ菊池ニ入、黒田勘解由孝高は御船ニ入、
 利壹岐守勝信
ハ阿蘇内牧ニ入

一天正十六年閏五月肥後半國を加藤清正ニ賜、半國を小西
 ニ賜候
一慶長五年肥後一圓清正公ニ賜る

一加藤家見圖帳之儀慶長七年中檢地相成、田畑壹坪限之下
 ヶ名を記し、上中下之位を分分米盛り付、帳尻竈數男女
 牛馬其外柿・みかん・桑・楮等之木數を記有之、帳數貮
 千七百八拾冊餘有之、右帳面寛永之比迄ハ行れ候と相見、
 其後百七八十年取扱も無之由、蟲喰等にて切レ/\ニ相
 成居候ニ付、文化元年裏打いたし嶽丸御櫓ニ相納申候事
  但本行之外、文禄・天正之比之檢地帳八・九十冊有之
  候へ共、やハり本文同様之帳面ニて御座候
一忠利公御代寛永年中地撫有之、田畑壹坪限ニ下ヶ名を
 記、上中下之位を分ヶ檢地之竿前を記し、一紙之前ニて
 分米を盛付候、見圖帳寶暦之比迄行レ候と相見、其後取
 扱も無之蟲喰等ニて切レ/\ニ相成居候付、文化元年右
 同断
 右之通追々之帳面有之候得共、地方之儀不明精候ニ付、
 田添源次郎より地引合被仰付度趣相達候付其通被仰付、     松本寿三郎氏論考「熊本藩の宝暦地引合について」
 寶暦七年より地方引合、明和六年迄年數十三年見圖帳・
 名寄帳・下名寄帳入組書・反別帳共夫々出來仕候、尤其
 節右帳面三通り調方被仰付候て、嶽丸御櫓へ被入置、會
 所備付方取扱日仰付候事
   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする