津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川家史料に見える「相良清兵衛事件」(1)

2018-08-08 08:10:12 | 史料

先に「■相良清兵衛について」を書いた。
熊本県人吉の城下で起きた相良藩(22,000石)を揺るがす事件である。藩の重臣で8,000石を領した相良清兵衛(犬童頼兄)の行いが専横だとして、藩主の相良壹岐守(頼寛)が幕府に訴え出たのが発端である。幕府の召喚により清兵衛が江戸に発った後、藩主壹岐守は清兵衛屋敷(お下=おしも)並びに隠居所を襲わせ、清兵衛一族を誅伐した。清兵衛は関ケ原戦における戦功者であったため、蟄居処分として津軽に流刑となった。
ご紹介した論考を読んでみると、「細川家史料」から引用されたものが多々含まれている。
そこで「大日本近世史料 細川家史料26」から事件に関する記述を抽出してご紹介してみようと思う。
この「細川家史料26」は、細川忠利が死去する前年の寛永17年の記事を中心に収録されているが、ちょうど「相良清兵衛事件」が起こった時期である。
過去に於いて、人吉相良藩についてはあまり触れてこなかったが、これは私に全く知識がないことによる。
この史料をまとめてみると、この事件の大凡が理解できる。

まず最初は、当人相良清兵衛に宛てた清兵衛の息・相良頼安の病死を悼む書状である。
  5596 六月十三日相良頼兄宛書状
       一筆令申候、我等儀昨日下国仕候、御息内蔵助殿御煩候而死去候由、江戸罷有砌承候へ共、
       取紛令無音候、御力落之段、察入候、遅候へ共、此儀為可申入、如此候、為香典黄金拾両
       進之候、寺へ可被遣候、委曲使者可申候、恐々謹言
            六月十三日
            相良清兵衛殿
                 御宿所

以下関係する文章を各内容を抜粋して列記する。
  5629 六月十五日有馬直純宛書状(抜粋)
      一生駒殿・松石州・相良壹岐家中出入ニ付而、何も家老召ニ被遣候、定而何も可罷上と、相
       良清兵衛ハ老足ニ候間、少も遅上候ハヽ、何角と取沙汰可申と存候、今日迄珍敷沙汰何方
       にも不承候事

             (この間、相良清兵衛幕府に召喚さる)

     5673 七月九日木下延俊幷小笠原忠知同長次銘々宛書状
       態申入候、求磨之様子尋ニ遣候處ニ、留守居共ゟ如此ニ両通返事仕候間、寫懸御目候、早
       相濟候ニ極候、求磨境ニ居申候我等者、急求磨へ参、様子所之者ニ尋候而参候様子
      一相良壹岐守(頼寛)内犬童半兵衛(頼昌)事、清兵衛(相良頼兄)まゝ子ニ而候、半兵衛儀ハ寺入仕候ヘ、又、犬童孫太
       郎ハ所之事さばき候間、彌不相替可召仕由、神瀬外記と申者を江戸ゟ使ニ差越候へ共、同
       心不仕、清兵衛屋敷へ侍共十人計、下々五六十も召連、屋敷へ楯籠、壹岐殿使をも打果申
       付而、七日の朝ゟ留守居共右之屋敷を取まわし、四つ時分ニ速ク討果仕廻申候由候、家數
       も蔵共かけて五六十やけ、三之丸ハへい矢倉もはし/\やけ候事、 一、半兵衛籠候屋敷
       を取まわし討果候もの共、死人十人計、手負二三十人程も在之由候、本丸ゟ鐵炮ニ而かな
       し候故、はやく家に火をかけ相濟たる由候、兎角落着仕候事
      一早々委申度候へ共、右之様子ニ求磨之留守居共取紛、堺目ゟ内へ理申、人を入不申候ニ付
       而、堺目之沙汰不慥候所ニ、求磨堺之我等者理申、くまへ参、所之者ニ様子相尋参候者之
       口如此ニ申入候間、手負死人なとの事ハ少ツヽハ違可申候へ共、それハ不苦候儀と存、如
       此候、恐惶謹言
            七月八日
            (木下延俊)
            木右衛門様
            (有馬直純)
            有左衛門様
       別紙ニ、   (小笠原忠知)
            小壹岐様
            (小笠原長次)
            同信濃様 尚々、求磨堺番を置、内へ人を入不申、
                        具ニ知不申候ニ付、只今如此候、以上
                        人々御中  

         【人吉市】相良清兵衛地下室  お下の乱(おしものらん)

 5681 七月十三日久留島通春宛書状
      一別ニ珍敷儀も不承候、相良壹岐殿内清兵衛と申者、御用之事候而召候而、六月廿ニ日ニ罷
       登候、其まゝ子犬童半兵衛と申者求磨ニ居申候、此五日ニ壹岐殿ゟ留守居共へ使をやられ、
       清兵衛儀ハ御尋之事も候間、先公儀之慮ため寺入も仕候而居候へ、半兵衛儀ハ不相替召遣
       候様ニ仕度由状をやられ候處ニ、わるく心得、清兵衛屋敷へよりき共引ぐし、當月六日之
       晩より楯籠、殊壹岐殿之使をよひよせ、きつく尋申候故、使も腹を立申候故、使を半兵衛つ
       かまえ、きつく清兵衛儀又ハ此度□□使ニ参候やと申候へ共、中/\使之者よハミ出し不
       申候故、其分にてハとまり不申、傍輩之人しちなとあつめ、すてニ上下七八十ニ及候、領
       内より落人申出候故様子知レ申ニ付而、七日之早々ゟ留守居共とりまき、七日之巳之刻ニ
       不殘打果シ申候、取巻之者も十人討死、手負も又二三十有たるよしニ候、又壹岐殿城ゟ四
       五里わきニ清兵衛屋敷有之由、其留守居清兵衛屋敷へはいり、事わけハ不存、屋敷をかた
       め居申候を、色々わけを申聞候へ共、同心不申候故、一日ニ是もやきうちに留守居申付た
       るよしニ候、是ハ少之事と承候、此外別なく相濟申候事
      一右くま之儀ハ所之沙汰承候、たしかなる儀ハ不承候間、其御心得可被成候、恐惶
            七月十三日
            久留島丹波守様

     現・球磨郡錦町一武

 5692 七月廿七日稲葉一通宛書状
      一先書ニ申入候事覺申候間、又申入候、七月七日に犬童半兵衛討死候後、求磨之城ゟ四五里
       わきに清兵衛隠居所御座候、其留守居楯籠候を、又討果申候様ニ承候つる間、重而尋ニ遣
       候ヘハ、左様ニ而ハ無御座候、喜平次女彼隠居所ニ居申候を討果申かと番之者共氣遣仕候
       ヘ共、一切左様之わけニ而は無之ニ付而、留守居共様子江戸へ尋候由候事

コメント (3)
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