津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■炎天下の図書館行

2018-08-03 17:14:59 | 徒然

 午後から炎天の下、自転車をこいで図書館行き、どうしても早急に手に入れたい史料が二三あっての事だ。
熱射病予防にボトルに氷をたくさん入れた水をもって、準備万端である。
20分ほどの距離だが、帽子をかぶっていても頭が焼けるような感じ。

資料を閲覧するためにカウンターで申し込みの手続きをしていたら、先客の方の申込書がチラリと見えてびっくり、実は明日お目にかかる予定の来熊された横浜のSさんだった。
お声かけして挨拶をかわし少々立ち話、明日又お目にかかることを約した。Sさんもご先祖探しのために大いなる努力をされておられる。

私はと言えば曾祖父の奥方の生母(上田久兵衛・室)の生家探しである。
沼田氏であり久兵衛の日記などでは「通丁の沼田」と書かれている。
「熊本所分絵図」を見ると、通町筋に沼田貞右衛門借置」という書き込みがあり、久兵衛が言うところの「通丁の沼田家」に間違いないと思われる。
沼田家は本家と分家が二つある。沼田貞右衛門という人物は、本家4代延将の末弟延春を初代とする分家(500石)の8代目にあたる。
久兵衛の奥方は沼田九八郎の長女とされるが、あまりにも沼田家の系図に固執していて判らないままであった。
昨晩何となく「有禄士族基本帳」を見ていたら、なんと当人の名前があるではないか。

図書館で史料を取り寄せると、沼田九八郎は旧名九兵衛、沼田門太(旧名貞右衛門)の養嗣子とある。明治三年時習館の句読習書斎長を勤めている。
住所も「通丁45番地」とあり間違いない。これで難問がひとつ解けてご満悦このうえない。

帰りも炎天下、いささかの上り坂が76爺には堪えたが、うれしさが勝っていて元気に帰宅と相成った。

 

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■上田太郎右衛門の家系

2018-08-03 09:34:36 | 人物

 寛永前期、忠利公の命を受け葡萄酒つくりに尽力した上田太郎右衛門の家系である。
   

        +--上田忠左衛門-----+---久兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩家臣・上田久兵衛家(200石)
        |         |
        |         +---加左衛門(平戸在叔父養子)
        |         |          
        |         +---忠蔵 200石~300石  (真源院様御第御侍名附以降不明)      
        |
        +---(平戸在・某)====加左衛門(養子・忠左衛門二男) 以降詳細不明               
                       |         
        +--上田太郎右衛門---+---弥兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩家臣・上田軍次家(300石)
                  |
                  +---三四郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩家臣・上田箶矢郎家(150石)
                  |
                  +---八左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩家臣・上田要蔵家(100石)

 各種史料に忠左衛門に「平戸在住の弟」が在ることが記されている。
忠左衛門の二男・加左衛門がこの叔父に養子になっている。
「平戸在住の弟」は、三齋公に南蛮料理を作ったり、又忠利公から南蛮時計の修理を仰せつかったりしている。
又加左衛門弟・忠蔵に「万力」の技術をこの叔父に教えてもらうよう忠利公から仰せつけられている。いろいろ南蛮系の技術を習得した人物であったらしい。
熊本大学永青文庫研究センターの今村准教授は「永青文庫研究・創刊号」の論考「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」の中で、この平戸在の某を上田太郎右衛門だと比定しておられる(p45上段)が、私は別人のように思われて仕方がない。
太郎右衛門には三人の男子が在り、それぞれが一家を為しているが、平戸在の某の養子となった加左衛門がその後どうなったのかが、知れないからでもある。                            

                             

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■井田衍義・書抜しらへ 郡府舊記 十八(13)

2018-08-03 07:01:20 | 史料

 六三二
 當御國之儀最初加藤主計頭清正様貮拾五萬石、小西摂津
 守行長様廿四萬石、其外ハ御兩殿様御代官所、天正十七
 年ニ御入國、然處ニ慶長五年石田治部少輔三成謀叛ニ付
 行長依為一味濃州關ヶ原合戦ニ滅亡、其後行長公御領
 御代官所共、清正公都合五拾四萬石御所勘被成、度々御
 検地被仰付、慶長九年に御給知相究申候由
   反別高積
 上田壹反 分米壹石三斗   中田壹反 同壹石貮斗
 下田壹反 同壹石壹斗    上畑壹反 同八斗
 中畑壹反 同七斗      下畑壹反 同五斗
 上山畑壹反 同三升五斗   中山畑壹反 同貮斗五升
 下山畑壹反 同壹斗五升
 右御検地前々田畑畝數ニ御國中一同ニ此高積ニて村切ニ
 何程と相究申候、是を御先代より之現高と申候、同忠廣
 様御代も右之通ニて御座候、〇妙解院様寛永九年十月に
 比遊御入國、翌年之春より御國中え撫之内檢地被仰付、
 五ヶ村三ヶ村宛組合庄屋御百姓立合、坪々小竿を打有畝
 に御先代より之村高を割賦仕候、高ハ違不申候得共、畝數
 多少ニ付村々ニて反別之分米違申候、御家中え被遣候御
 知行ハ、御先代寛永六・七年三ヶ年之物成を御撫し被為
 成、納米四ッ成に被成渡被遣候、就夫御先代ニ高免之村
 ハ御知行高のひ申候、下免之所ハ縮ミ高へり申候、是を
 撫高と申候、公義御蔵納ハ現高の御沙汰にて、撫高ハ御
 給人知迄拵ニて候事、〇高百石此物成納米四拾石、是
 に二わりを以入四拾八、又五ノ口米納米貮石に二割を入
 貮石四斗、都合五拾石四斗、前廉の釣掛舛ニ成申候、近
 年京舛一通りに成申候、釣掛舛より京舛ハ大ニ有之候ニ
 付、釣掛壹石ニ付六升四合宛ちゝみ、京舛四拾七石三斗
 八升ニ成申候、此内四拾六石ハ本米免ニして京舛免四ツ
 六分、壹石三斗八升ハ三ノ口米ニて、最前之納米四成の
 免只今之京舛免四ツ六分ニ當り申候、右之書附事長ク如
 何ニ存候得共、御先代より之反別之高違申儀撫高のわ
 け、其上御給人知は御拝領四つ成の御免ふまへに仕候指
 引有之ニ付書付申候

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