津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■井田衍義・御惣庄屋十ヶ條 縣令條目 廿一(2)

2018-08-26 15:21:09 | 史料

 七二九
 口上
一御百姓共平日奢ヶ間敷儀無之、費等堅不仕、衣類之儀襟
 袖口帯等ニ至迄絹類堅相用不申、菅笠・合羽・鼈甲象牙
 之櫛笄等、従前々御停止被仰付候儀委不及申達候、然處
 下方今以風俗悪ク、衣類其外共猥成る様子不届之至候、
 急度相改、諸事兼て御法度向堅相守候様人別各より可被
 申付候、右之趣度々被及御沙汰、皆共よりも稠敷申觸事
 ニ候へ共、今以相改不申様子不届至候、此上右之趣相背
 候もの於有之は、其者ハ不及申村役人共へ急度可被申付
 候、左無之候ハヽ各へも可為越度候條、稠敷被申附、相
 背候者有之候ハヽ早速覺書を以可被相達候、餘御郡前宜
 敷、支配所格別惰弱ニ有之候ハヽ不届至候、其外賭博ヶ
 間敷儀兼て御法度之通稠敷可被申付候、相背候もの有之
 候ハヽ其趣可被相達候
一前々より年程相觸候徳利酒村々へ有之、御百姓風俗悪敷
 家業を不出精ニいたし候段相聞不届之至候、村々稠敷可
 被申間敷候、勿論、札受取候賣人たりとも札面之外賣物
 堅賣せ被申間敷候、右之通相背候者有之候ハヽ、其者ハ
 申不及村役人共指通不申候様、稠敷被申附、及違背候者
 有之候ハヽ早速可被達候
一馬口勞札之儀、札を受取候者共之外牛馬商賣立等之儀不
 仕筈ニ候處、間ニハ無札之者立會、又ハ高持御百姓之内
 ニも左様之類有之様子相聞不届候、急度被申附、相背候
 者有之候ハヽ是又早速被相達、右之外御法度之趣一々不
 及申達候、年々御沙汰之趣委敷申聞相慎候様稠敷被申付
 違背之者少も見遁聞遁なく、尤遠慮會尺等ニ拘不被申、
 急度吟味有之可被相達候、不之様子ニて風俗相改不申     扌偏に乄=締
 候ハヽ、其趣委敷御役所へ相達申筋有之候事

 七三〇
   覺
一年中方之儀、追々御達之趣村役人共も所柄ニより堅相
 守、且、小百姓ともへも不絶申聞候ニ付、村々引風俗
 も宜様子ニ相聞候間、彌以入念常々無油断心を附候様可
 被申渡候
一博奕之儀御法度ニて候處、間ニハ心得違之者有之、相顕
 候ヘハ御咎被仰付、筋ニより庄屋共も越度相成候間、聊
 之儀ニても手遊不致様被申渡、各もひたと廻在方ニ成
 候様被申付候
一在中ニて無願見せ物致興行人を集メ候儀ハ、兼々御法度
 被仰付置候、春内は人形舞シ踊春駒其外致門藝もの入込
 候を村方ニ宿致せ、假ニ舞臺等敷儀取しつらひ、又ハ間
 廣なと借受、近郷之人を集メ藝致せ候心得違有之、跡達て
 方申付候所々有之候、右躰之儀及吟味候ヘハ、所ニよ
 り在宅人之名をかすり又ハ在宅人屋敷内ニて興行有之、
 村役人共より指留候儀難成段申出候、在中之妨ニ相成候
 趣を以相断候を、在宅之面々強て興行可被仕様無之候、
 萬一相断候ても聞入無之、押て興行有之候ハヽ、早速御
 惣庄屋え致注進候様被申付置、早々此方え可被相達候
 右之趣小百姓共迄も委敷可被申附候、御法度之條々格別
 申達ニも不及事ニ候得共、右両條は間々心得違も有之候
 ニ付、御役所にも相達猶又一統及達候間、不洩様可被申
 付候、以上
  正月

 七三一
一御百姓共之儀、耕作之時節をたかへす、地味を考、農業
 出精いたし、御年貢諸出米銭公役等速ニ相勤、親ニ孝行
 いたし、夫婦兄弟にむつましく、諸御法度を守候者ハ、
 風儀宜敷御百姓ニて誠ニ國之寶ニて候、士農工商共其家
 業を専に致筈ニ候、百姓ニ生れ得候もの農業を出精いた
 ス筈之事なから、極々骨折仕事ニ付、生質不情成者ハ間
 々外之業ニ移り安く候ニ付、庄屋・頭百姓・村横目より
 常々委申聞せ精を出せ候様、農業出精ニて油断なく働候
 者ハ夫たけ作徳有之事不及申事ニ候、左候得ハ御年貢も
 早ク納候上諸事夫ニ應手廻よく、第一親を能養ひおのつ
 と家内申分も無之候、右之通ニて御法度を守候者ハ賞翫
 すへき事ニ候、夫ニ引替不情のものハ時節ニ後レ、仕事
 も麁抹ニ怠りかちに有之候ヘハ、不作ハ目の前ニて御年
 貢も難澁いたし、夫よりハ人ニ不筈出來諸事せわらしく
 成行候て、親も養ひ得す家内口論勝ニ有之、自然といろ
 /\之悪事を工ミ御法度を背き、つまる所ハ盗賊共相成
 事候、善悪之分り根元農業ニ出精不出精之所より起候
 間、能々此意味を辨へ出精致シ候様可被相心得候事
  但、庄屋・頭百姓・村横目ハ不及申、五人組内ニても
  頭立候ものより委敷申談、何レも出精致せ可申事
 

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■三齋公と檜垣の塔

2018-08-26 08:11:08 | 歴史

 昨日の史談会では「檜垣媼家集補註」を取り上げた。檜垣媼は、能「檜垣」が有名であり、又「年ふれば わが黒髪も白川の みずはくまで 老いにけるかな」の歌でも知られる。
この「補注」は、熊本の近世後期の国学者・中島廣足の著によるものだが、これに書かれている檜垣の塔である。実物は熊本市蓮代寺町の蓮台寺に檜垣のお墓として存在している。
この「檜垣の塔」については、細川家の肥後入国直後の三齋(忠興)公の逸話が残されている。
熊本城に入った三齋公は、城内にこの檜垣の塔が在ることに気づかれて、次の宿泊地河尻から、書面を届け、蓮台寺にすぐさま返すように言い渡されている。
そして八代に初入城するために出発されている。「三代集」にある檜垣の歌のことなどをよく御存知であったことを示す逸話である。

         

            昨日申度候つれとも、初而参候故、無其儀候、
            今日ハ天氣悪敷河尻ニ逗留申内、越中
            所ゟ歩之者参候間、幸と令申候、仍而、ひか
            きの女の石塔を、肥後守居間之庭に居候            
            へる、御入之此女ハ、三代集之内ニも入、無隠儀ニ
            候、左候へハ、國之古跡にて候、其はかの石塔迄取
            候事氣ちかい一つの内たるへきかと存候、其上
            見事にも無之候、万事肥後守仕様悪事ハ
            不可仕置候儀候條、當年中ニこれを取除むかし
            の所ニ遣しむかしニ不替様取立置可然かと
            存候、各分別候而能時分、越中に可被申聞候候 以上
             十二月廿一日          三齋
              四郎右衛門殿 (家老有吉立行)
              道 孝 老  (大友義鎮宗麟の二男)
              竺 印    (山田竺印)
              中 庵
                 参

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