津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■瑶臺院様御帰国

2018-12-10 08:59:57 | 歴史

 熊本藩町政史料(ニ)に、寛政四年(1792)五月晦日瑶臺院が帰国された旨の御達がなされ、七月十七日には「盆踊之楽被遊御覧旨ニ付、追廻し御馬見所下」を通られる旨、また廿四日には「所々御出」があるが、「墓参などの際には屋敷門前に手桶を差し出すよう」に指示が為されている。

 瑶臺院とは宇土細川家六代藩主興文公の息女・埴姫で、細川治年公の奥方である。
天明二年(1782)四月二人は結婚、治年公23歳、埴姫は姉様女房で27歳である。翌年には身籠られたが流産されている。そして治年公が天明七年(1787)に亡くなられたため、埴姫はわずか五年で寡婦となられた。実子は居られない。
治年公には結婚前に側室(?)が生んだ男子を含め三男ニ女があったが、嫡男年和はまだ幼いため、埴姫の実弟・宇土細川藩主立禮(瑶臺院同母弟)が宗家を継いだ。齊茲公である。年和を継嗣とすることが予定されていたようだ。

この時期(寛政四年)は、治年公没五年後のことであり、二三男はすでに亡い。
熊本藩年表稿は「湯治のため」と記すが、翌五年四月廿七日には新築なった二本木邸に移徒されているから一時帰国ではないらしい。瑶臺院は宇土の生まれであり、熊本での余生を選択されたのか?
年和も20歳で亡くなり治年の男子が藩主になることはなくなった。
瑶臺院は享和三年正月49歳で同邸にて亡くなられた。

 

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■度支彙凾 寛政元より文化七迄 法令條論・十七(6)

2018-12-10 07:08:40 | 史料

 五五五
 寛政三年正月
一御滞留御出之節、御用物持懸候人馬幷御擬作取以下え被
 為拝領候人馬ハ、是迄御郡役に被召支候貮付差紙札相渡、
 御知行取之面々は、入用之人馬賃錢御郡間へ上納有之候
 得は賃錢札相渡、左候得て右之賃錢追て下方え相渡來處、
 此節御僉議之旨有之、御知行取之面々は人馬賃錢上納ニ

 不及、御用物幷御擬作取以下え被渡下候人馬共、都て賃
 錢は御出方ニて下方え被渡下、人馬被召仕候筈ニ候、畢
 竟在方人馬立方之御厭ニ御出方筋ニ相成候儀ニ付、人馬
 立方餘計無之様随分可被用心旨一統及御達候條、此段為

 御存知申達候、以上
   正月

 五五六
 寛政三年二月
一下々奉公人給銀之儀、従前々御定之趣有之候處、遂年高
 給相望候段相聞不埒之事ニ候、依之今度被改別紙書附之
 通被仰付候、此段一統達ニ相成候様相達可申旨御座候、
 以上
   二月
 地奉公人給銀
一 百五拾目限
 右は諸色高直之折柄ニ付、當分限を被立置候、鑓持・中
 間・駕之者・草履取等、或は老弱・強弱ニ寄右之内ニて
 斟酌可有之候、尤二月以後追々召抱日申候分は、右之高
 月割を以可被相渡候
一右御定之高を越、増給相願候奉公人は、人置所ニおゐて
 吟味之上急度申付筈ニ候
一右奉公人共之内、抜群之勤稜等有之、褒美等之儀は格
 別、尤抱差出ニ給銀高認載價被相達候
  右之通可被相心得候、以上
   二月

 五五七
 寛政三年
一御家中幷寺社之内、在人數之者を譜代家來ニ召抱、追て
 譜代被差放儀も有之節は、他之支配ニ相成候儀は難叶、
 元々之通村人數ニ被差返筈候、若無據子細有之、足輕以
 下組入或は養子等ニ遣日申候歟、又は依所望他之家來ニ
 譲被申候儀も有之節は、其段前以御郡方御奉行え可被相
 達旨、去々年正月及達置候、然處町在人數之者御家中幷
 寺社譜代之家來ニ相成、又は右譜代之家來支配之者之養
 子等、苗字・帯刀之身分ニ相成、追て獨禮以下御家人之
 養子、或ハ足輕組入・御家中え奉公加勢等之所存ニて、
 在人數を離れ候儀願出候者も間々有之様子ニ相聞不埒ニ
 付、向後右躰之儀決て難叶旨、町在一統申付候、依之近
 來町在人數之者を譜代家來ニ召抱被申候内、若右躰所存
 之者も有之、後年共召仕不被申文は、元々之通町在人數
 ニ可被差返候、尤町在人數之者を譜代家來ニ召抱、後々
 共召仕、又は一季抱ニて若黨ニ召仕被申儀は今迄之通ニ
 候
一五家中屋敷又は長屋借之儀は、御惣庄屋・或は町別當共
 え被承合、本所之障無之段申送候上被差置筈ニ先年相究
 居候、然處在人數之者御家中屋敷幷野屋敷・寺社屋敷を
 借、又は町家え入込、日雇稼・商賣等ニて致渡世候者、
 数年御府中え罷出候内ニは、在所え高地・家屋敷をも不
 致所持者有之、自身は在人數ニて有之候得共、子弟等は
 寺社支配又は町人數ニ加り、或は無支配之者も間々有之
 趣相聞候、依之此節御惣庄屋共より委ク相糺、夫々支配
 方等相究申筈ニ候間、此段可被承置候
 右之通可相達旨御用番被申聞候間、左様御心得御同役中
 え御通達、御組々えも御達可被成候、以上
   二月十日          御奉行中

 五五八
 寛政三年公義御觸
一朝鮮人参之儀、拂底之品ニて高直成故、輕キ者及大病候
 ても容易用候事難成ニ付、享保年中より朝鮮種を以人参
 作殖之儀御世話有之候處、次第ニ増長致し、當時ハ諸國
 ニて作覺世話差支も無之趣候間、公義より作殖被仰付候
 儀以來被差止、製法所ニて座賣相止候、是迄は朝鮮種人
 参作候儀無謂候ては不相成候處、以來は作候儀は勿論賣
 買共可為勝手次第候
   十二月

 五五九
 寛政三年六月公義御觸
一陰陽道業いたし候輩は、土御門家支配たるへき儀勿論ニ     細川藤孝(幽齋)の妹(三淵氏)が土御門久脩に嫁いでいる。
 候處、近年甚亂雑ニ相成、陰陽猥ニ執行ひ候族も有之候     二条泰重母
 様ニ相聞候、以來右躰之心得違無之様、土御門家より免
 許を受、支配下知堅相守可被執行候
 右之趣不洩様可被相觸候
   四月

 五六〇
一陰陽道職業にいたし候輩は、土御門家御支配たるへき旨
 従公義被仰出候趣先達て相觸候通候、然處御家中幷寺社
 支配浪人譜代之家來之類、又は町在人數之内、陰陽道を
 職業ニいたし候躰之事有之、且占考祈禱等を以米錢等之
 禮物抔受取候者も有之様子ニ相聞、前條公義御觸を相背ニ
 等ク候條、自今右躰之者ハ筋々ニ申出、土御門家え可致
 入門旨、此節一統及達候條左様御心得、御同役へ御通達、
 御組々えも可被成御達候、以上
   九月十一日         寺社方御奉行中

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