津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■度支彙凾 寛政元より文化七迄 法令條論・十七(7)

2018-12-11 10:31:33 | 史料

 五六
 寛政三年十月御觸
一惣銀所・御切米所之儀今度被差止、御勘定附属ニ被仰付
 候、依之右両所ニて取計來候御用筋都て御勘定所ニて取
 計有之候條、諸切手差紙・諸差出等、今迄両所え宛被指
 出候分、以來御勘定所え宛、月限是迄之通ニて御勘定所
 え被差出候得は、両所分共是迄之御定法之通ニて取計有
 之筈ニ候、此段可申達旨ニ候、以上
   十月廿七日

 五六二
一御知行取手取米、例年渡方觸出候上印紙追々被差出、揃
 兼候處よりしらへ方及混雑候儀も有之候條、當年よりは
 手取米觸出ニ不拘、暮渡之印紙十一月中ニ御勘定所え被
 差出候様、一統被及達候間、此段可申達旨候、以上
   十一月廿二日

 五六三
 寛政三年十一月御達
一下々御奉公給銀之儀、遂年高給相望候段相聞候、然處當
 時諸色高直之折柄ニ付、地居奉公人給銀百五拾目限當分
 被立置候段、當春委細及達候得共、出替之時節ニ差懸候
 故難澁も有之たる哉ニ相聞候、此節猶右御定之高を越、
 高給相望間敷旨町在一統及達候間、此段被承置彌以當春
 及達候通可被相心得候、此段可相達旨候條、御同役え御
 通達御組々えも可被成御通達候、以上
   十一月           御奉行中

 五六四
 寛政四年閏二月御達
一醫業之面々年中之醫案治験漢文又は國字ニても相認、翌
 正月醫業吟味役ニ書附相達候様との儀は、寶暦六年十二
 月及達候通候處、以來重病奇疾之分ハ其節々醫業吟味役
 へ差出候筈候
 右之趣御家中支配醫師幷寺社支配町在醫迄不洩様達之事
一至て困窮ニて醫療難乞躰之者ヘハ、施薬被仰付候、右之
 譯支配方は町家之別當・町頭等、旅人は旅人宿より再春
 館え書付差出候得は、施薬被仰付筈候事

 五六五
 同年九月御達
一於江府去ル四日、太守様為御名代細川能登守殿登城之處、
 御拝借金被蒙仰奉恐悦候、右之趣一統申聞置候様被仰出
 候ニ付、則被仰渡之御書付別紙寫之相添候條被奉承知、
 此段觸之面々え可被達候、以上
   九月廿三日         奉行所

            御名                       眉山山体崩壊・津波被害
 其方領分昨年以來打續候水害、殊ニ當年高波の様子は別    寛政四年四月一日 
島原大変・肥後迷惑
 て不置趣、人民之死亡、破損之ヶ所も不少相聞候、其外
 普請等も専取計歟有之儀ニ候處、上納金をも被致候以後
 之儀ニ候得は、其手當歟為難儀と被思召候、依之金三萬
 両拝借被仰付候、尤領分損亡・水害等付て都て拝借被仰
 付筋ニは無之候得共、前書之次第ニ付格別之譯を以被仰
 出候儀ニ候間可被得其意候、返納之儀は來々寅年より十
 ヶ年賦上納可被致候、幷先達て之上納金殘之分は來年よ
 り以後勝手次第連々可被相納候、委細之儀は御勘定奉行
 可被承合候
   九月
               画像

 五六六
 寛政四年十月御達
一御銀所錢納之儀、御定法被定置、追々ためしも有之候處、
 錢ニ善悪有之候故懸目輕重不同も有之、目數足り不足強
 チ懸目を以破錢も難相成、其上錢之取扱頻々ニ有之候得
 は猶以破錢も出來、是迄御費も多、且町在之諸上納錢納
 方之難澁、又は持出候節都中ニて之煩費も有之趣ニ相聞
 候ニ付、此度御仕法被改、現錢受取方はやはり是迄之通
 ニて被差置、向後一統便利之ため小預を被備置、諸渡方
 之内預を望候ハヽ現錢同様即座/\渡方被仰付、勿論追
 て錢引替受取度分は是又早速/\現錢ニ引替被渡下、町
 在より之諸上納ニも右預を以被立下筈候事
   十月

 五六七
一御家中え御割賦を以被渡下鹽之儀、上納定規高ニては及
 不足、年々御買足を以取賄ニ相成候處、當夏津波ニて
 鹽浜打崩候ニ付ては、過半御買足を以被渡下候ニ付、是
 迄之通壹俵五匁宛ニては直段相當不致候間、追て鹽濱舊
 復いたし候迄之内、當十月より御勘定所渡御郡間共壹俵
 ニ付五匁八分宛ニて被渡下筈候事
   十月

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■村田眞理氏の論考「尊王攘夷派のシンボル・三条実美と熊本」を読んで

2018-12-11 07:21:53 | 論考

(一財)熊本城顕彰会発行の季刊冊子・復刻代112号に、村田眞理氏の論考「尊王攘夷派のシンボル・三条実美と熊本」が掲載されている。いわゆる三条実美らの七卿落ちに際し、その宿所である大宰府の別当家の延寿王院の警護に、細川家から四人の藩士を送り込み、その守護と賄のために尽くしたことを取り上げている。
又、実美の実妹・峯が結婚を前にして一条忠香の養女と成り、安政元年二月(1854)11代藩主・細川慶順(韶邦)に嫁いでおり、又実美と当時の大宰府天満宮別当の信全とが二従兄弟に当たる事等を系図で示している。
信全は公家の梅小路定肖の男子だそうだが、その実兄がなんと細川家の菩提寺である妙解寺の住持であることにも触れて居られる。このような関係で細川家と一条家・三条家・梅小路家とのつながりが、公武合体派である韶邦から、護久・護美兄弟等の尊王攘夷派への藩意の移行に少なからず影響を与えているのだろう。
(大宰府天満宮の別当職はその後西高辻家に継承され、代々世襲で現在に至っている。西高辻家は高辻家の分家であり明治初年創家された)

細川慶順(韶邦)室・峯の養父一条忠香は、尊王攘夷派の三条実美と考えは対極にある公武合体派の人物である。そういう意味においては政治的色合いを100%異にする一條家に何故妹を養女に出したのか、実美の意が計りかねる。(一条美子が明治帝の皇后になるのはまだ先の事である-明治元年十二月入内

細川家に於いても慶順もその父である齊護も公武合体の志向が強い人物であった。
慶順としては正室の実兄の配流という現実は、複雑に揺れ動く当時の政治状況に悩みながらも、親族としての想いも多いに動いたものと思われ、和田権五郎・横井牛右衛門・大里隼之助・古閑冨次など物頭クラス以上の人物を選抜して派遣している。
又、三条公らの書簡などが妙解寺をとおして隠密裏に京都などにもたらされているという。

細川家と一条家のかかわりは、非常に深いものがある。8代藩主齊茲女・邰(峯・芳・延)が、文化十二年に一条関白忠良に嫁いだのが始まりである。齊茲の曾孫・慶順に一条忠良・邰(定子)の息・忠香養女の峯が嫁いだことになる。護久は慶順の異腹の弟で養嗣子となったが、一条家のしばりはなく尊王攘夷へと藩意の舵を切る。歴史のめぐりあわせは誠に面白く、その後細川護久の娘・悦が公爵一条実輝に嫁ぎ、その子女が親王家その他いろいろな処に枝葉を広げている。

この七卿落ちをもたらした政変の以前には、一条忠香・三条実美双方から色々周旋の話が細川家に対しもたらされているようだが、慶順にとっては頭の痛い事であったろう。藩意の変換は次の藩主・護久の指揮によってもたらされた。
慶順夫人(一条峯)の義姉・美子は明治天皇の皇后である。慶順が韶邦と名を変え、藩主の座を降り東京住まいを始めた直後、天皇・皇后が韶邦邸を訪れられている。行幸というようなかしこまったものではなく、皇后の妹宅に心やすく尋ねられたものと考えたい。

この村田眞理氏の論考は、幕末期の細川家の苦悩ぶりを考えるうえで、興味深い示唆がある。
確かな出典史料がそれを為さしめている。

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