津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■北村甚太郎覚書(廿ニ・廿三・廿四)了

2018-12-01 16:04:51 | 史料

(廿ニ)
一丹後田邊城攻寄手衆
 小野木縫殿助  石川備後守   谷出羽守    川勝右兵衛 
 藤懸三河守   長谷川 鍋   高田河内守   毛利勘八
 早川主馬    中川修理    竹中源助    杦原伯耆守
 別所豊前守   小出大和守   赤松左兵衛   山崎左馬助
 木下右衛門太夫 源仁法印    生駒雅樂頭   御使番二人

(廿三)
一田邊御籠城の衆
 寺井吉右衛門  荒木善兵衛   日置善兵衛   丸山助左衛門
 加藤新助    大塚源次    松山権兵衛   佐野三允
 加納曲斎    麻生喜左衛門  神戸喜右衛門  坂井半助
 寺井道雲    村野庄助    久代右近右衛門 大野源十郎
 築山五右衛門  上羽小右衛門  山本三郎右衛門 矢野七助
 中村甚左衛門  上原甚七    上林助兵衛   上羽新兵衛
 宮村出雲と改名
 北村甚助    入江淡路    北村勘三郎   前田七郎右衛門
 蓑田甚之允

 右者絵圖之表名付有之面々合三十也 不分明二ヵ三ヵ也
 外ニ嶺山衆各 宮津衆各

(廿四)
 忠興公籠城之衆へ被遣候御書之写
  明廿日龜山迄可着候處尓 城可相渡由尓候へ共徳善院事
  尓候間 可成程馳走可申と様子 内府様へ申入候 其御返事次第
  可下國候 扨々二度逢候ハん事夢とのミ思ふ事尓て 面々
  籠城さへ奇特と存候尓 か勢きともの由無比類 尓
  けおち候やつ者ら餘りの事尓にくけなくおかしく
  候 恐々謹言
    九月廿一日      越忠興
      宮津尓て
        籠城之衆中


  

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■県庁前広場にルフィ像

2018-12-01 11:06:32 | 熊本

               西日本新聞サイトから

 昨日の熊本はマンガ「ワンピース」の「ルフイ像」が県庁前広場に完成し、お披露目された話でもちきりです。
子供たちは大喜びの様子で、今日は県庁前広場は銀杏の紅葉鑑賞と共に大賑わいでしょう。
私は漫画を読んだ事はありませんが、熊本出身の尾田氏のご活躍ぶりはよく承知をしています。
地震後出身地熊本のために巨額の寄付をお寄せに成り、又このような像の建設にもご協力いただき、今後熊本県内各地に建設される像も、夫々人気を呼ぶことでしょう。益々のご活躍をお祈りいたします。

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■T家所蔵の侍帳

2018-12-01 07:13:40 | 史料

                        

 昨年10月初め東京在住のT様が所蔵される文書(冊子)が数点送られてきた。
二ヶ月ほどというお話であったが、すさまじい荒れようであったため、紙面の殘欠断片をなんとか元の状態に戻そうと悪戦苦闘して復元に及んだ。
また全ての紙面をばらして全てをアイロンがけをして、綴じ直しなどを行った。
結果厚みも半分以下になりなんとか元の体裁に復することが出来たように思う。
過日十数ヶ月ぶりに、T家にお返しすることが出来、肩の荷を下ろしたところである。

この写真の冊子は、大正十二年二月謹写とあり「肥後旧藩士録名簿」と銘打ってある。
どなたがお持ちであったのかは記されていない。
藩政期最晩年のものである。よく似たものが青潮社から「肥後細川家分限帳」として発刊されているが、若干異なっている。こちらの原本は「旧藩御家中知行附」と銘されており明治廿三年に中島氏が書されたものを刊本(1991年発行)としたものである。
中島氏所蔵のものも体裁は良く似ている。刊本とT家所蔵本と見比べてみると若干の違いが見て取れる。

 破れているところには裏から和紙をあて、殘欠の紙片の文字を頼りにこれを元の位置に戻して張り付けて、何とか旧に復した。この作業は遅々として進まなかったが、作業の途中ひょっとしたら、「肥後細川家分限帳」と内容が同じなのではないかと思うに至り、全く同じではないが参考にすることが出来、これを見ながら作業は急ピッチで進んだ。お預かりしてから十月ほど経過していた。すべてをばらしてアイロンがけをした際、コピーをしたのがこの写真のものである。
写真で分かるように紙面のしわくちゃ状態が残っている。

 我が「新・細川藩侍帳」に反映させようと考えているが、それは「肥後細川家分限帳」には見受けられないデータが存在しているからである。
御中小姓身分の扶持米・蔵米取や、寸志知行(金納)之者等の記載である。
総数計1,315人(但中小姓省ク)とある。この点でも「肥後細川家分限帳」の1,298人とは異なっているが、この違いがどこに在るのを比べるのは至難の業である。
サイトでご紹介している「新・細川藩侍帳」の改編を進めている中で、T家の史料も反映させるつもりで頑張っているが、最終的にはいつ完成できるのか当人さえ見当がつかないでいる。
無事完成できるのか、只々その時を迎えることが出来る様、生きながらえさせていただきたいと願うのみである。

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