花畑邸の正月の模様を坪井川沿いから描いてある。左手は「黑御門」右手は「裏御門」である。
この絵は(一財)熊本城顕彰会発行の季刊誌「熊本城」の復刻第79号から引用させていただいているが、村田眞理さんの「熊本城下年中行事(一)」にある、細川刑部家に残された史料である。色々な記述の中から氏は明治4年以降に制作されたものとされているが、幕末~明治初頭にかけての細川邸の模様であろう。
それぞれの門に門松が飾られているが、現在私共が知る門松とは随分様相を異にしている。下の写真は自衛隊・西部方面総監部の正門の左右に建てられた門松だが、さすがにでかい。門松と言えばこのようなものと思っていたが、江戸期の門松は誠にシンプルであったことが判る。
折口信夫に「門松のはなし」という小文がある。その中に東京では「削いだ竹が中心になつて、それに松があしらはれてゐるのが本式」であり、現在ではそれが全国に広がったのだろう。
現在ご紹介している度支彙凾においては度々門松の事が取り上げられているが、知行取の家ではその分限に関わらず五段の松が飾られたようだ。
しかし毎年の事であり、供給が難しくなり三段に省略したりした時期もあったらしい。
町家では誰でも飾って良いわけではなく、藩のお許しを得た分限者に限られたのは当然の事である。ステータスという訳だ。
六ニ〇
享和元年十一月公義御觸
天明八年御觸書口ニ有之略ス
一右之通天明八申年相觸候處、近比は猶又武家屋敷内、或
は寺社在町等ニおいて右躰不届之儀いたすもの有之趣相
聞、既ニ追々召捕候ものも有之、畢竟等閑成儀如何事ニ
候、以來屋敷内末々長屋等ニ至迄嚴重ニ申付、無油断相
改可申候、右寺社在町等へも一統同様相心得入念可申候
右之通御領・私領・寺社領・町方迄不洩様可被相觸候
以上
十一月
六ニ一
一近來面躰を隠し候頭巾を拵、途中ニてかふり候もの數多
有之、奉行所より尋ものニ紛敷候間、前々より有之候丸
頭巾・角頭巾之外一切かふり申間敷候
右之趣先年相觸候處、近比又々免躰を隠し候異風之頭巾
かふり候もの有之段相聞不埒之次第、左様ニは有之間敷
殊ニ候、依之以來面躰を隠し候頭巾をかふり歩行候者於
有之は、屋敷ニても廻り之者見懸次第頭巾をとらせ名前
等を承糺、疑敷者候ハヽ召捕、届ニ不及町奉行え可被相
渡候、尤咎違は不苦候
右之通可被相觸候
十二月
頭巾
六ニニ
享和二年三月御達
一御銀所預被改候ニ付、五匁幷匁分五分預之儀付て、去六
月及達候通ニ付、右両様之小預は其月限ニ至悉皆現錢を
以引替被仰付、夫銀小預通用は被差止筈候處、左候ては
町家之者等末々に至別て難澁之段願出候趣も有之候ニ
付、休息ニ被引上候儀は見合被置、両様小預之内も先當
分通用被仰付置候、尤前條及達候趣ニ付、振出ニ相成居
候小預之内一ヶ月ニ三日宛毎月八日・十五日・廿五日現
錢を以引替候分は、夫銀引揚ヶ日仰付筈候間、小預所持
有之現錢等望之面々は、來月より右定日三日宛之内御銀
所へ申出引替價申候事
三月
六ニ三
同年
一火術稽古其業試候面々之内、未熟之業ニ候哉、所柄次第
火用心悪敷、且又見物人群衆ニて作方之障ニも相成事ニ
付、彼是之障無之場所、川尻大慈寺河原或所々川口人家 地図
田畑を離候場所ニて被相催候様、若子細有之、右外之所
ニて火術仕度輩も候ハヽ、前以所柄被相達候様寶暦十三
年一統及達置候處、御府中近所人家田畑有之所ニても花
火・流星等揚ヶ候儀間々有之、心得違之事候、彌以前條
及達候通被相心得候様寛政七年及達置候へ共、又々相弛
候哉ニ相聞候、御府中屋敷内は勿論、在中たり共極之外
堅心得違無之様一統可及達旨、御用番被申聞候條、已下
例文
四月 御奉行中
六ニ四
享和二年五月御達
一御銀所預之儀現錢之御備御手薄ニ相成、現錢引替渡及難
澁、下方之儀も自然と現錢無多事相成、預之融通不宜、
只今通ニては上下之難澁其分ニ難被差置候ニ付、預減方
之御仕法種々被仰付候内、在中之儀は本地・新地共壹反
壹升宛、開畝物は同壹升五合宛當年より三ヶ年之間各別
寸志上納被仰付、預減方之内ニ可被差加哉之趣御郡代よ
り達有之、御僉議之上其達被仰付筈ニ相決候、依之御赦
免開之儀も右ニ准シ、壹反壹升五合宛三ヶ年之間別段寸
志上納被仰付、所々町之儀は壹間口五匁宛右同断被仰付
筈ニ候、右之趣御家中御赦免開所持之面々え可及達旨候
條、此段以下例文
[付札]「給人上畝物之儀ハ、床懸之反懸米上納ニ不及、上
畝物之畝數ニ應し、御赦免開同様壹反壹升五合宛之寸
志上納被仰付候事」
六ニ五
同年六月御達
一御銀所減錢引替之儀、御家中渡分是迄は印鑑等は不被指
出相濟候得共、此節印鑑壹枚宛御勘定所え達有之候様、
左候て現錢引替被指出候節も、印形之書附預ニ添被指出
候得は、印鑑ニ引合現錢引替被渡下筈候條、此段御組中
へ可被成御達と奉存候、以上
六月三日 御勘定所御奉行中
六ニ六
享和二年六月
一為江戸・大坂詰代被指立候面々、豊後路通行之節、人馬
宿等無支様ニとの事、御郡方より宿々え及達候事候處、
四日路・五日路との事不相分故、宿々人馬之用意ニおゐ
て甚費有之、百姓共及迷惑候由申立候、依之以來は出立
前御泊付上下之人數幷雇人馬之數を記、別段御郡方へ達
有之候様、左候ハヽ其書付を以人馬宿等無支様用意可仕
旨宿々え可及達候、然上は若泊付達無之候得は、人馬宿
等用意之達減候事ニ付、行懸可為難澁候、且又右之面々
下着之節は、鶴崎人馬所より先觸仕出申事ニ付、四日路・
五日路之差別得斗申達有之候様、此段一統可及達旨候條
左様御心得、以下例之通
六月 御奉行中