五八七
寛政八年七月御達
一御歸國御禮之御献上物之内、干鯛品柄不宜旨ニて御下ヶ
ニ相成候ニ付、右之段申上候為、長鹽角大夫儀去ル八日 長塩角大夫400石
江戸表差立候段申來候、依之角大夫嫡之上、太守様御差
扣之儀御伺日遊筈候、尤右之段被遊御承知候事ニ付、其
内之儀も御内證は諸事御慎被遊候條、其旨相心得可被申
候、此段觸支配方へも可被申聞置候、以上
七月 奉行所
一御歸國御禮御献上物之内、品柄不宜由ニて御下ヶニ相成
候ニ付、太守様御差扣之儀江戸え以御使者被遊御伺候、
依之御領内一統諸事相慎、火用心別て入念、音曲鳴物繕
作業等相止可申候、尤御家中は長髪ニて罷在、屋敷/\
ハ大門を閉置候様、且又責馬相止、口入之儀は御厩又は
追廻ニて不苦、尤仰山ニ無之様相心得可被申候、此段觸
御支配方へも可否達候、以上
七月廿ニ日 奉行所
五八八
一御差扣御伺之御使者、去ル五日江府着、即夕御先手山本
伊勢守様を以御書付御差出被遊候處、御差扣ニ不被為及
旨、翌六日御用番戸田采女正様より御差圖有之候段御到
來有之奉恐悦候、勿論諸事平常之通可被相心得候、此段
觸支配方へも可被達候、以上
八月十八日 奉行所
五八七・五八八の記録は藩主帰国の御禮として将軍家に献上した「干鯛」が品質不良であったため、差し
返されたことを長塩角大夫が江戸を発ち熊本に報告のため帰国した。これに対するお詫びの使者の派遣と、
この事故に対する藩主以下家臣一同の慎み方について触れている。
家臣は元結を切り月代を剃らずに長髪で慎み、各家は門を閉ざし、音曲鳴り物等や責め馬等を慎しんだ。
このことは在町でも同様であったらしく、通達が為されている。
(岡崎鴻吉著・熊本御城下の町人・古町むかし話p230には「干鯛の祟り」という文章で紹介されている)
急を告げる使者が七月八日江戸を発し、お詫びの使者が江戸へ発ち、まずは特別なお咎めもなく、八月十
八日には江戸からの差許しの使者が到来、これら三人の使者が約1ヶ月と10日の日を継いで駆け抜けた。
五八九
一藤崎宮御祭禮、九月十五日執行被仰付旨達有之候事
五九〇
寛政九年二月御達
一御郡間におゐて御本方同様之錢預致出來候付ては、寛政
五年一統相達置候通ニ候、然處今度御郡間被差止候得と
も、御郡間御銀所は名目迄小物成方御銀所と被改、取計
筋萬端やはり是迄之儘ニて被差置候間、當時振出ニ相成
居候錢預通用之儀、今迄之通何そ相替宜無之候、幷御郡
間より是迄相渡置候割印之書附も、右割印根帳御奉行所
御郡方え相納り引合等明白之事ニ付、其儘ニて被差置候
條、此段御組中へも御達可被成と奉存候、以上
二月廿四日 御郡方御奉行中
五九一
寛政九年閏七月御達
一火術稽古其業試候面々之内未熟之業ニ候哉、所柄次第火
用心悪敷、且又見物人群衆ニて、作方之障ニも相成候事
ニ付、彼是之障無之場所、川尻大慈寺河原、或は所々川
口仁か田畑を離候場所ニて被相催候様、若子細有之右之
處ニて火術仕度輩も候ハヽ、前以所柄被相達候様、寶暦
十三年一統及達置候處、近來は御府中近所人家田畑有之
處ニても花火・流星等揚候儀間々有之、心得違之事ニ付、
彌以前條及達候通被相心得候様、此節猶又一統可及達御
用番被申聞候間、左様御心得御同役へ御通達、御組々へ
も可被成御達候、以上
閏七月八日 御奉行中
五九二
寛政九年閏七月御達
一御家中幷町在ニて醫業ニあらさる輩、痢疾瘡獨等之藥猥
ニ相用及死亡候者も追々有之由、其外不正之療治ニよつ
て命を失ひ、或は廃人ニ相成候者有之様子ニ相聞候、人
命を預療治致し候儀は至て重キ事ニ付、再春館をも被建
置精々被入御念、本業之面々も醫學講習之上療治有之事
ニ候得共、其業ニも無之輩、家傳又は承傳等を以療治致
し候儀は不心得之至ニ付、以來醫業外之面々病家を受持
致療治候儀は屹ト被禁候
一當時賣藥致し候如神丸・一粒丸は様子有之、以來賣買被
差留候
右之通被仰付候事
閏七月
五九三
寛政九年十一月御達
一御勝手向之儀追々及達置候通、去ル子年以來夥敷新規之
御借物打重り、去夏以來洪水跡荒地起キ殘分も未タ莫大
之儀ニて、近來ニは舊復ニ難相成、勿論御免四ツ成ニ至
候儀も當分は有之間敷、御難澁至極之御様子ニ候得共、
手取米之儀は可成たけ減方無之様精々被仰付置候ニ付、
御役人中も取計筋種々心力を盡し、重疊僉議之筋を以、
當暮も御家中手取米之儀、去年之通被仰付候、以上
十一月