津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■新元号「和セ令ム」?

2019-04-01 12:43:11 | 徒然

                      令 和

 官房長官の発表を見て漢籍から引用して「和セ令ム」(わせしむ)と読むのだろうと思ったら、典拠が万葉集だと聞いて驚いてしまった。

               
于時初春月 氣淑風梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

                               ひら
          時に初春の、気淑く風ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

漢籍からの引用ではなく、日本古来の「万葉集」を典拠としたところは、多くの国民の共感を呼ぶのではなかろうか。

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■平らか成らず

2019-04-01 08:29:30 | 随想

 「平成」という元号には、新しい時代に対する希望のようなものが込められていた。

    「内らかに外る」「地らかに天る」は、結果としてとてもそう為ったとは思えない。

特に天変地異の渦中に巻き込まれて難儀な時期を過ごしたし、この30年余は私自身も我が家も多難なことがうちつづいた。
本当に新しい時代は「永々たる平安」が続いてほしいと願うばかりである。
私は「永安」なんてアリかなと安直に思ったりしているが、手元の文春文庫の「元号・年号から読み解く日本史」を眺めていると、「永安」は16回も候補に上り、全て没になったとある。笑ってしまう・・・

                        元号 年号から読み解く日本史 文春新書 / 所功 〔新書〕
あと数時間、発表が待たれるところだが、世の中はまさに新しい時代を祝うかのように桜が咲き誇っている。

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■永源師檀紀年録・巻之四(8)

2019-04-01 07:06:03 | 史料

 元亀
〇同三年壬申正月十八日大樹ノ側ニ於テ屋形ト上野清信ト口論ス、其ノ起リハ上野卒忽ニ謂テ曰ク、信長去冬
 山門ヲ焼亡シ悪逆無動ナリ、剰へ奢侈僭上君ノ上ニ立ント欲スル底面ニ露ル、早ク追伐シ玉フ可シト、屋形
 ノ云ク、甚タ無益ナリ、高声ナル事勿レ石ヲ抱テ淵ニ入ル底ノ説遠慮有ル可シト也、遂ニ争論向上ス、屋形
 ノ言ト大ニ深意アリ、所以ハ岐阜ヨリ法華日乗上人ヲ都ニ処セシメ平日柳営ヱ出入ナサシム、此ニ依テ屋形
 ハ上野カ軽忽ニ讒ヲ致シヨシナキ謀叛ヲ勧メ奉リ害ノ根植ルヲ以ナリ。
〇同年二月第宅ヲ今出川ニ新造スルニ依リ上野此ヲ監ス。廿三日上野家人ト荒川家人ト争論大ニ喧嘩ス、屋形    荒川治部少輔晴宣室は細川藤孝室・麝香の長姉
 ノ息熊千代殿ハ弱齢ナレトモ稍豪強ヲ好ム、此ノ喧嘩ヲ聞テ怒テ迫コメヌ、又三淵等ニ議シテ密ニ計ラシム、
 是モ以テ父子ノ中カ和セズ。
 同年岐阜家ヨリ書ヲ屋形ニ馳テ河州ノ事ヲ尋ヌ。
〇因テ屋形兵ヲ起テ畠山ノ臣ノ遊佐ト河州正覚寺ニ挑ミ戦フ、三好義継・同城州入道ハ若江枚方ヨリ進発シテ
 遊佐ヲ援ク、就テ松井ニ遊佐ヲ押へサセ、屋形ハ三好カ黨ト力戦シテ義継ヲ若江ヱ追退ク、直クニ枚方ニ至
 テ、山城入道カ要害ヲ二昼夜中痛ク攻ム、此ニ依テ松永父子ハ屋形ノ為ニ志貴ノ囲ヲ解レテ網ヲ脱ル鳥ノ如
 シ、因テ三百余騎ヲ帥テ屋形ノ後援ヲ為ス、三好カ黨ノ茨木・三宅・高槻・大坂・若江・金體寺・正覚寺・
 吹田等モ各自ニ発シテ山代入道ニ後援ス、屋形ハ九月中旬ヨリ仲冬下院迄テ摂河ヲ征伐シ、吹田・三宅・茨
 木等ノ諸城ヲ陥ル、十二月八日ヲ以テ屋形上洛ナリ。
〇同四年正月与一郎殿熊千代殿ナリ永源庵ニ入テ伯父玉峯ニ就テ出家セント乞フ、比レ未タ長ト成ラスト言へトモ、
 比来気象豪強ニシテ屋形ノ意ニ和セサルカ為ナリ、然トモ玉峯確乎トシテ許サズシテ委諭ス。大樹此ヲ細川
 輝経ノ継嗣トナス。此レ三淵及ヒ屋形ノ家臣ノ議シテ計ロフ所ナリ、因テ久カラスシテ和順ナリ。唯此レ継
 嗣ノ名ノミナルユヘ後復タ故家ヲ継ク。

 

〇同年同月岐阜家上洛シテ旧冬屋形ノ摂河ノ戦功ヲ賞労ス。大樹ト岐阜家ト増不和ナリ、年賀ヲ述ベザルノミ
 ナラズ、已ニ矛盾ニ逮ントス、屋形巧弁ヲ以テ此ノ和順ヲ為ス、織田家ハ岐阜ニ帰坐ス、後チ大樹ヱ屋形ヨ
 リ諫ヲ納ㇽト言へトモ聴カズ、終ニ破ル。二月大樹ヨリ使節ヲ甲州ニ馳テ武田ノ援兵ヲ乞フ、屋形ハ忠諫ヲ
 空シテ、却テ勘気ヲ蒙ルカ故ニ獅子カ谷ヱ退居シテ剃髪セントス、杉原淡路守友之此ヲ知テ大樹ニ白ス。大
 樹愕テ三淵藤英ヲ馳テ召ス、未赴シテ屋形ハ高倉参議範国及ヒ伊勢貞隆ニ託シテ執達シテ願フニ三ヶ条ヲ以
 テ曰。
   一信長ト矛盾ノ思召被止候事
   一近年河州若江ヱ度々上使ヲ被立御懇々ノ義也、彼ハ御家之大敵、前将軍ノ冤也。是以其器ニ相当大将
    ヲ以テ御誅伐可有之処、却而御懇意之譯ヶ兼々京都ヱ可被召返之思召是何之謂也。
   一近年御近衆ト称シ尼子兵庫高久・番頭大炊義之・岩成主税慶之・荒川掃部政次
    右四人之者共ハ、去永禄八年前将軍ヲ奉討怨敵之奴等ニ候、然ヲ却而御馳走也、信長ハ其所ヲ相助ケ
    致近衆置候、信長ノ意可有御了簡候者ハ、随分御慎可有之処、彼等ヲ御懇情ニ而卒忽之思召立候事。
 此之趣、執達スレハ大樹領掌ニテ岐阜家ト和睦也。此ニ於テ此行屋形ハ獅子ケ谷ニ居ル事僅ニ廿日計リニシ
 テ出勤ナリ。

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