今日のお月さまは昨日用随分赤身が強く輝いていました。
あと10日で平成も終わるとあって、毎日空を見上げています。
最高気温26℃、汗をかくような一日でした。
建築史家・評論家長谷川堯氏の訃報に接した。現役の時代この長谷川堯氏といま一人の川添登氏の著書には大いに親しんだものだ。
この長谷川氏は川添氏とは違い、建築学科の出身ではない。その氏がのちに毎日出版文化賞を得られた「都市回廊」なる著をだされたときには、いささか驚きながらも読んだことを覚えている。
建築の世界から離れた今もこの「都市回廊」や「生きものの建築学」などという著書は今も私の本棚に或る。
村野藤吾の作品や人物評など建築家ではない視点での観察は大変興味深いものがあった。
建築学会賞を受賞されているが、まさに氏にとっては勲章であったろうと推測する。ご冥福をお祈り申し上げる。
蛇足だが来年の大河ドラマで主人公の明智光秀を演ずる長谷川博己氏は、氏のご長男だという。これは驚きであった。
ご子息も応援せずばなるまいと思ったりしている。
私が古文書に触れた最初は、わが家に残る「先祖附概要」という和綴じ文書である。
眺めつすかしつしてもミミズが張ったような文字を読み解くことはできず、断片的にしか理解できなかった。
しかし、家祖である磯部氏が織田信長の家臣だったという記述や、その後毛利氏に仕えたこと、また浪人して下松に居住していた折忠興公が旅の途中で度々お寄りになり、お休み所を提供したり食事を差し上げたりしたことなどが判明した。
下松居住中での細川家との関りが、磯部長五郎とその弟で我が家の祖である磯部庄左衛門が豊前に召し出されるという結果をもたらした。
長五郎が忠興公に殉死した蓑田又助を介錯したことは、森鴎外の小説にも取り上げられ是も驚かされた。
ドラマでおなじみの水戸光圀公のご家来・助さん(佐々助三郎)の名前を見つけたのも大変な驚きで、助三郎が来国した際二代目太左衛門が道案内を勤めたことを後で知った。
そんな記述に触れるうちに、何とか古文書を読めるようになりたいと願望するに至った。
その間、熊本大学の松本寿三郎教授の「細川家侍帳」、川口恭子客員教授の「細川家家臣略系譜」が相次いで出版され、これを拝見するに及んで大いに触発された。
独自で一年ほどをかけて「新・細川家侍帳」を作り、又HPを立ち上げるとともにこれをご紹介することにした。もう10数年前の事である。
これが序々に思いもよらぬ反響を得ることになり、現在の私の活動の原動力になっている。
いろんなお宅からご先祖調査のご相談があったり、又先祖附の読み下しの依頼が相次いだ。
有難いことにその後もそれぞれのお宅との交流が続いている。
一方我家の始祖磯部家については相当の努力をし、いろいろ情報を頂戴もしたが、現在に至るも確たる状況には行きつかないでいる。
当家の先祖附の解読については、大叔父が親交のあった川口恭子先生にお願いしてお手を煩わしたらしく、先生筆跡の読み下し文がコピーとして手元にある。
これを手本に私の古文書解読の一歩がスタートした。
古い資料との出会いは不思議な偶然がある。
かってNHKの「ファミリーヒストリー」で歌手の財津和夫氏を取り上げるにあたり、私はNHKから資料の提供の依頼を受けた。
財津家は数代前に養子に入っておられ、NHKではそれ以後の新しい時代を中心に編集され、古い資料は役に立たなかったようだ。
図書館通いを重ねる中で財津家の親族に平川家があることが判り、この史料を調べるうちに、財津家の親族とは全く縁のない別の平川家の存在を知った。
この平川家が当家とルーツを一にすることが判り、その資料を得て当時大いに興奮したことであった。平川家文書
初代の兄・長五郎に「熊」なる女子があったことは先祖附にも記載されていて存在は承知していたが、この熊(のち龍源院)が忠興公の元にあり、八代の塩屋観音の復旧に尽力したりしている。
また熊本に於いて女ながら宗嚴寺を創建しているが、このことは熊本史談会の若い友人N君がもたらしてくれた情報である。宗嚴寺
先祖附からは伺えぬこのような貴重な情報が得られると、このような駄文を書き残そうと思わせてくれる。
先祖附には一定の形式があるようで、各家のものをいくつも読んでいると自然と古文の読み下しは出来るようになった。
全くの独学だが、「くずし字辞典」とにらめっこをしながらも、現在ではいろんな古文書の提供を受けたり、又自らも手に入れたりして楽しんでいる。
その後は家族もあきれる歴史狂いと相成った。