津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ノートルダムの火災

2019-04-16 14:56:44 | 建築

 20代の後半、ヨーロッパ数か国を旅したが、その折ノートルダムも身近に見学した。
キリスト教建築はバチカンやドウモウ、ケルンの大聖堂なども見て回ったが、巨大な教会がもつ荘厳さや、合唱する少年少女たちの声が複雑な教会の作りに相まって不思議な残響をのこす、心地よい音のハーモニーの空間も体験した。
仲間に「キリスト教徒になろう」と冗談をいったほど、それぞれの地で感銘を受けた。

ノートルダムはゴシック建築のお手本のような建物で、重要な構造体であるリブボールトを支える、不思議な形をしたフライングバットレスが特異なデザインとなっている。

              
花をモチーフにしたきれいなステンドグラスや、高くてスマートな尖塔等が今でも目に浮かぶ。


その尖塔に火が回り、折れて落下していくさまなど、パリっ子ならずとも涙してみた人も多いことだろう。
いずれは再建という事になるのだろうが、現代の優れた建築技術をしても100年ほどの時間は要するのではないか・・・

世界遺産中の最たる遺産ともいえるノートルダム・・悲しい姿は見たくなかった。
被害状況写真 https://www.afpbb.com/articles/-/3221132?pno=0&pid=21177489

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■地方史ふくおか

2019-04-16 14:51:37 | 論考

 過日O氏所蔵の刀三振りを拝見、夫々刀身のみである。刀というより太刀が正しいと思われる、細身の反りがあるものである。
大刀と脇差は無銘だが、小刀には「大道」の銘があり由緒あるものらしい。

随分依然一度この「大道」という刀について書き込みをしたことを思い出して読み返してみた。
    大道とか宜貞とか・・刀工のこと 2010-10-26 

その中で、「地方史ふくおか」に「豊前小倉の刀工大道一家の系譜・・細川藩時代前後に於ける豊前系大道と美濃系大道」という、論考の存在を紹介していた。
しかし入手については果たしておらず、この書籍を入手したいと思い日本の古本屋其の外いろいろ探したが見つからない。
「地方史ふくおか」は、福岡県地方史研究連絡協議会が発刊しているが、その名が示すように福岡におけるいろいろな郷土史の団体が参加している福岡の郷土史の総元締めのような処である。この協議会の事務局は福岡県立図書館にあった。
今朝ほど電話をして、残部があれば入手したい旨を申し上げると、残念ながら売り切れであるとの事、さてどうしようかと電話先で思案していると、該当記事をコピーで提供できますとのありがたい話、早速入手の手続きをとった。

いろいろ機会をとらえては雑多な資料を集めているが、刀は門外漢であり大事な資料としてファイルに収まることになる。

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■永源師檀紀年録・巻之四(21)

2019-04-16 14:16:42 | 史料

慶長五年
〇同年七月廿四日伏見ノ急脚ハ内府公ノ小山ノ営中ニ至ル、曰、石田等叛スルカ故ニ此月朔ヨリ大兵ヲシテ伏     石田三成挙兵す
 見城ヲ襲ハシムル事昼夜ヲ捨テズ、然モ能ク防キ守ルト云へトモ、遂ニ敵ノ次隊中ニ陪スル所ノ浮貝藤介ト
 躬方ノ甲賀ノ兵ト密謀シテ城ニ放火スルカ故ニ、松平主殿頭・鳥井・内藤等ノ城兵悉ク戦死スト、又タ此ノ     伏見城陥落す
 夜陰ニ逮テ忠興主ノ家士小山ニ至テ曰ク、大坂ノ諸侯叛シテ人質ヲ要ス、就テ室家此レカ為ニ自尽シ、且ツ     忠興室自刃と田辺城囲まるの報
 其ノ黨已ニ田辺城ヲ囲ミヌト、委曲ニ白ス、此ニ於テ小山ノ諸営ノ心自ラ動キヌ。翌廿五日信州ヨリ告来テ
 曰ク、真田父子分ツテ石田ニ与力スル者ハ上田城ニ拠テ叛スト、此ノ日又タ加州ヨリ急ヲ告ク、大聖寺城主
 山口父子石田ニ与力シテ叛スルカ故ニ、小松城主丹羽長重ト争戦ス、前田利光師ヲ金沢ヨリ出シテ丹羽都争
 戦スル事数回ナリト、内府公現今合国一統ニ叛スル事ヲ聞テ、愕然トシテ沈思ス、少頃アッテ大息シテ諸侯
 ニ謂テ曰、■我家ノ沈倫厥レ是レ此ニ有ルカ、顧フニ吾カ師ヲ江戸ニ班シテ只好シ天運ニ任カスルニ、然ラ      日偏に意とあるが
                                        スクイ
 ハ各々ノ妻子大坂ニ在ルカ故ニ詎リ撃念ナカランヤ、速ニ師ヲ大坂ニ班へシテ妻子ヲ拯ヒ家ヲ全フセシム可
                  ナンゾ
 シ、面リニ弓ヲ我ニ弧トモ我レ曷ソ怨ンヤト、然モ諸侯黙止ス、忠興主進テ曰、臣伏見ヲ発スルノ時キ身命
 ヲ公ニ奉セリ、他ハ遮寞アレ臣只扈従センノミト、福嶋曰ク、忠興ノ言ノ如シ臣等妻子ヲ顧テ曷ソ不義ノ汚
 命ヲ千歳ニトランヤ、公厥レ師ヲ出サ
ハ臣ハ清州ノ城ヲ捧ケテ一方ヲ承ラント、就テ諸侯曰ク、タレモサマ
 ウコソ存スレト勇気面ニアラワレヌ、内府公曰、万般各ヲ頼ムト也、忠興曰、恐アリト云へトモ重テ愚情ヲ
 述ン、師ヲ江戸ニ班シテ城ヲ守ラント甚タ不可ナリ、縦使列国ノ石田ニ援ストモ豈ニ馬ヲ江濃以東ニ進メン
 ヤ、其ノ所以ハ七月下浣以来徒ニ緩々地ニ胥議シテ兵ヲ遺ル事弛ヘリ、然モ如此ナル時ハ戦モ亦タ勢ヒナシ、
 大谷ハ我ガ侭ナリ、毛利・浮田等ハ己レ立ント欲シテ豈ニ石田カ命ヲ承ンヤ、此ノ幣ニ乗シテ急ニ征伐セハ
 勝利掌ヲ指スカ如ケン、先ズレハ人ヲ制スルノ理アリ、臣先鋒ヲ奮ン速ニ進発シ玉へ、然レトモ東国ヲユル
 カセニスル時ハ否也、幸ニシテ伊達・最上ハ公ニ属ス、更ニ今マ将ヲ択テ東ヲ抑へ玉フ可ト、時ニ結城秀康
 公曰、我不器ナリト云へトモ関左ヲ預カラント、此ニ於テ諸侯ヲシテ先ツ進発セシム、諸侯ハ清州ニ至テ内
 府公ノ師ヲ班へスヲ待ツ、然モ内府公ノ出師セル事遅シ、是以テ忠興主及ヒ福嶋・加藤・池田・浅野・黒田
 ・藤堂・京極・堀尾・田中・有馬等会議内府公ハ黒田ヲシテ密ニ福嶋ノ心ヲ挑マシムト也ス。時ニ正則ノ曰、越州ハ我カ議対ナリト
 思ヘリ、然ルニ今マ無言ナルハ敵方ニ当世名ヲ称セル智慮ノ人ノ数輩アルニ臆セラルヤ、我等ノ愚按ナル胸
 襟ヨリ出ル言ト云へトモ適ニハ的中スルノ言モアリ、曷ンソ口ヲ閉ルヤト、忠興主答へラク、大夫殿ハ主也、
 我等ハ賓也、然ハ其ノ主ヨリ愚按ヲ残ス事無フシテ吐露セラル可シト戯謔ス、座上倹ナ一笑ヲ発ス、正則ハ
 忠興主弐謂テ曰ク、足下請フ看ヨ敵ヲシテ我カ領地ヱ一歩モ進マシメジ、見今川ヲ踰テ敵ヲシテ敗亡セシム
 ルカ、我カ軍敗亡スルカ、明ニ人ヲシテ知ラシメン、此ハ是レ主先ツ嘗テ毒也否ヲ弁別シテ以テ賓ニ饗スル
 ノ謂也ト、忠興主曰ク、吾レ食セザル事四五日強也、今豈主ノ先ツ嘗テ毒ニ非ザル事ヲ知テ饗セラルヽノ厚
 情ニ負カンヤト、互ニ誹言シテ笑フ時ニ内府公使節ヲ清州ニ馳セ諸侯ヲ慰労ス。因テ公ノ出師ノ期ヲ問フ、
 使曰、其ノ期不識ト、正則ハ諸侯ノ機ヲ見テ作シテ扇ヲ以テ席ヲ打シテ曰、公ノ我等ヲアジキ無ト思ヘルナ
 ランカ、イザ岐阜ヲ征伐セント倹ナ謂フ可ナラント、因テ各々一隊々々前後ヲ序デヽ進発ス。孰カ敢テ其ノ
 機鋒ニ当ランヤ、福嶋・池田・一柳ハ偏ニ強勇ニシテ陸ニ舟ヲ行ルノ気象ユヘ前後ヲ論シテ屡争フ、忠興主
 ハ智謀深キ雄将ユヘ萩原前ニテ諸侯ト違ヘテ進ム、乃チ八月廿一日ヲ以テ萩原ヲ経テ西濃州ヱ赴キ、所々ノ
 舟筏ヲ聚テ鰧魚渡ヲ越ヱ、迂曲ニ渉ラス岐阜城北ニ進テ多羅尾近隣ニ放火シ、廿二日昧爽ニ茜部ヲ過キ河田
 渡ヲ渉リ、魁ケシテ最初ニ岐阜ニ入リ、間断ナク力戦ス、大手七曲口ニ於テ木造左金吾等師ヲ班へシテ数度
 防戦ス、津田勝三郎カ殿シテ過ルヲ、忠興主ノ家士幸田次郎介・柳田半助等急ニ馳テ戦フ、遂ニ津田ハ首ヲ
 幸田ニ授ケ、柳田ハ生駒カ首級ヲ獲タリ、忠興主ハ福嶋・加藤等ト兵ヲ合テ急ニ攻ム、終ニ七曲口先ツ破ル、
 就テ城中頻リニ降セント叫フト云へトモ其声ヲ別チ知レル人ナシ、忠興主屏上ニ跨リ我兵ヲ指揮スルユへ其
 ノ叫ヘル声ヲ聞テ、軍使ヲ諸軍ニ馳テ箭鋒ヲ制シ止メテ、織田家ノ降ヲ聴ルス、此ノ行ヤ忠興主諸侯ニ魁シ    岐阜城陥落
 テ此ヲ陥テ大功ヲ策ス、檄ヲ馳ス、此ヲ聞テ内府公ハ軍ヲ東国ヨリ班スヘシ、秀忠公ハ師ヲ江戸ヨリ出ス。

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