22時20分頃に撮影した平成最後の満月です。相変わらずぼやけていますが、何とかファインダーの真ん中に捕らえました。
文芸春秋社の作品紹介から
かつて、鎌倉幕府の成立は「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」と習いましたが、最近の教科書では「いいはこ(1185)つくろう鎌倉幕府」と教えています。ほかにも近年の研究で、従来の日本史の常識が次々と覆されています。古代、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸、幕末、明治……。日本史の転換点となった出来事や時代をつくった人物について、出口治明、本郷和人、伊東潤、鹿島茂、倉本一宏ら28人の執筆陣が最新の研究成果をもとに新たな論点を提示する一冊です。
目次序章 通史
交易から見れば通史がわかる 出口治明
第一章 古代
「弥生人」の大量渡来はなかった 片山一道
前方後円墳がピラミッドより大きいワケ 森下章司
謎の天皇・継体はヤマト王権の中興の祖 水谷千秋
蘇我氏と藤原氏を繁栄させた「最新技術」 倉本一宏
「日出ずる処の天子」宣言は苦肉の策 河上麻由子
壬申の乱の陰に「唐vs.新羅の戦争」 倉本一宏
第二章 奈良、平安
東大寺大仏建立は宗教改革だった 武澤秀一
長屋王の変 悲劇の王の「私生活」 渡辺晃宏
本当は激務だった平安貴族 倉本一宏
「光源氏」は暴力事件の常習犯 繁田信一
遣唐使中止でも日中交流は花盛り 榎本渉
第三章 鎌倉、室町
鎌倉幕府成立年は一一八〇年が妥当だ 本郷和人
北条政子「子殺し・孫殺し」の修羅 伊東潤
元寇の真実 「神風」は吹かなかった 服部英雄
元寇の目的は中国兵のリストラだった 杉山正明
「逆賊」足利尊氏は最後まで尊王を貫いた 亀田俊和
第四章 戦国、江戸
応仁の乱は「東軍」が勝った 本郷和人
「汁かけ飯」北条氏政はバカ殿ではない 黒田基樹
織田信長の意外なポピュリズム 谷口克広
豊臣秀吉の世界帝国構想は妄想か 村井章介
秀頼はやっぱり秀吉の子ではない 服部英雄
「豊臣家康」「豊臣秀忠」って誰? 堀新
「慶安御触書」は実在しない 山本英二
名門・酒井雅楽頭家を再興した凄腕家老 福留真紀
江戸の少子化が近代化を支えた 鬼頭宏
第五章 幕末、明治
倒幕の雄藩がなぜ「松平姓」なのか 横山茂彦
坂本龍馬は殺人の「指名手配犯」だった 菊地明
西郷隆盛は「ストレス病」で苦しんだ 家近良樹
岩倉使節団「留守政府」の功績 笠原英彦
司馬遼太郎が見抜いた「西郷幻想」の危うさ 鹿島茂
日米戦争 知られざる「原点」 渡辺惣樹
「永源師壇紀年録」をご紹介する中で、綿考輯録では伺えない事柄がいくつか出てきて、これが真実であれば細川家に対する認識が変わってくる。
ここでは藤孝の「仁恵の心をもつ思慮深い」人柄が浮かぶ。足利将軍家の血を引くという生まれながらのものであろう。
義輝亡き後、弟・覚慶を救い出し艱難の流浪の旅を続け、将軍家を再興したその力は、まさに藤孝の忠義心に他ならない。
しかしながら権力を得た義昭は佞臣の讒により藤孝を疎んじ始める。藤孝は将軍家を捨てて信長についたとされてきた。
将軍家の終焉は義昭の慢心による結果であろうが、藤孝はその結果を悲しみ義昭に付き従おうとしてい事が判る。
信長は非常に驚くとともに、藤孝を討とうとさえしている。これをとりなしたのが光秀である。その結果として藤孝は信長に臣従したのである。
その後に於いても義昭に対する心遣いが感じられる。
この史料の中で何度かにわたって藤孝と忠興の不和がうかがえるが、二人の性格の違いや人間臭さが感じられて興味深い。
これも綿考輯録では伺えないものである。
細川家の歴史をひも解く中で一番心が痛むのが、幽齋の女婿である一色義有の誅伐事件だが、これは信長の強い意向の結果であることが判る。
このことは信長の指示にも拘わらず藤孝が中々実行せず、たまりかねた信長はこれを忠興に命じて実行を促している。
綿考輯録等ではこれらのことについては触れておらず、編者小野武次郎は知らなかったのであろうか。または織田家に忖度して割愛したのかもしれない。
細川護貞様の著「細川幽齋」においても触れられておらず、事件に対する記述も避けておられるような感じである。
いずれにしても拭い去ることのできない細川家の汚点であるといえよう。
又忠興の娘・古保については第二女としながらもその生年を天正十年としている。つまり興秋よりも一年早い生まれであり、生母は郡宗保女と明記している。
そして三女・多羅が古保の同母妹であるとしている。多羅は明智珠(ガラシャ)の娘と紹介されることが多いがどちらが真実であろうか。
平成三十年に開催された「細川ガラシャ」展の図録にある「細川ガラシャ略年表」との齟齬がみられる。「永源師壇紀年録」は一級資料たり得ないのだろうか。
この記録を精読するとその記述が必ずしも正しいとはいいがたいところも見受けられる。一級資料として利用されない所以であろうか。
忠興の長男・忠隆の三人の女子についての誕生の年月が記されており、内膳家ご子孫が生母を前田利家女・千世姫とされる根拠が薄れたように思われる。
関係者のご検討を願いたい処である。
23回にわたりご紹介した「永源師壇紀年録」は、その一部分である。他の部分も又機会を得てご紹介しようと考えている。