細川藩政史研究会が発刊した「熊本藩侍帳集成」には、家臣諸家の家紋を記したものが二件紹介されている。
一つは「肥陽諸士鑑」、これは成立期は末尾の書き込みから「宝永五年頃」とされる。一人一人について役職・屋敷・略系・知行高・知行所村高などと共に家紋が紹介されている。
今一つはそのものずばり「御侍帳(家紋いり)」というものである。1,140人分が紹介されいている。
65頁に及ぶ膨大なものだが、ここから1頁ずつ取り上げてご紹介したいと考えている。
実は家紋の正式な名称がほとんどわからず、ご存知の方のご教示を得たいという思い付きからである。
■岩間怡・弥左衛門・岩間次左衛門の三家は武田信玄の孫(六兵衛)を祖とするとされる。綿考輯録は次の様に記している。
「武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、
今度(忠利室・小笠原秀政女千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公(千代姫は姪・養女)より一通り六
兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也」
(綿考輯録・巻二十八)
家紋については武田家由緒の家として「肥陽諸士鑑」では武田菱が表示されているが、ここでは違う二つの紋が紹介されている。
上は「隅切り平角に武田菱」、今一つは六個の武田菱が星型を作っているが名称はわからない。ご存知の方はご教示たまわりたい。
■岩間清次は「丹後以来」の家であり、岩間六兵衛系とは別系である。
ここでは家紋が表示されていないが、「肥陽諸士鑑」では「三つ矢」(三ツ矢サイダーのマークのような・・)「三つ唐団扇」が紹介されている。
■岩越椿十郎・文左衛門・佐十郎は家紋が同じであり同族であろう。「隅切り角に二の字紋」である。
椿十郎の祖・初代惣右衛門は島原の役で討ち死にしている(1,500石・番頭)
■岩佐土之允は7代目、祖父に竹内流弓術に長けた岩佐直軒(善助)が有名である。
二代目源五が、原城にて武功御褒美被下候、後改善左衛門 新知弐百石(綿考輯録・巻四十九)
家紋は釘らしいものが丸の中に横向き違いに入っている。「肥陽諸士鑑」ではこれが起きたものが記されているがどちらが本当か?
■岩田助之允は岩男助之允の誤植である。6代目か?
家紋は銭紋か、簡単な形で良く見受けるが名称は知らない。
今一つは五大家紋の一の酢漿草(片喰)紋の変形、石持ち酢漿草紋とでもいうのか。
■岩尾家は有名な剣豪・雲林院弥四郎を輩出した家系である。弥四郎の子(嫡家ではない)又五郎を祖として岩尾に改姓した。幾平太は5代目。
家紋は「丸に三つ扇」
■岩下宇左衛門は3代目、
岩下君恭 名は通靖、字は通恭、宇左衛門と称す。頗る文武の諸芸に通ず。食禄百石。
時習館句讀師となり後訓導となる、文政四年十二月十日歿す。
享年七十五。墓は廣町善正寺。
家紋についてはよくわからない。植物系か?ご存知の方はご教示いただきたい。
■岩崎甚右衛門は「岩崎直衛(南東1-6)家」の7代目。
家紋の名称についてはまったく承知しない。こうご教示・・・
■岩崎武兵衛は「岩崎橘次(南東1-7)家」の7代目。
御鉄炮弐拾挺頭同列・御近習御次組脇 御中老支配御目付 三百石
ここには二つの家紋が紹介されている。上方の家紋名称は不詳、下は「丸に中菱」とでもいうのだろうか。
いずれも確たる名称を知らない。こうご教示・・・
■岩崎平四郎は「岩崎物部(南東1-5)家」は3代目か?肥後人名辞典には次の様にある。(初代の召し出しが遅いため・・・?)
岩崎平四郎 名は元澄、藩に仕へて水前寺ろう締所御用掛を勤む。天保九年十一月四日没す。
家紋は「五瓜輪(ごかわ)に丸」か?
■岩瀬栄蔵は5代目、定府であったらしい。
家紋は「丸に三つ蔓付柏」これは間違いないと思うが如何・・・
■岩田満八は4代目か?
家紋は「右一つ丁子巴」これも間違いないか
■稲垣寛助は「稲垣嘉内(東南3-14)家」の4代目、龍口白金御座敷支配役、御目付兼帯を勤めた。
「肥陽諸士鑑」にもここにも家紋は紹介されていない。