津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本城・埋門

2019-04-29 14:04:00 | 熊本

                                                                       

ある方から熊本城の「うずみ門」というのは、「監物台の裏門ですか」と質問を受けた。
京町方面から監物台植物園の脇を通り熊本城に入る車が通れる坂道があるが、進行方向左側の入り口部分にひっそりと存在しているから、いかにもそう見える。
実はこの道は藩政時代には存在しなかった。「うずみ門」は現在は冠木門になっているが、もともとは櫓門であったらしい。
詳しい資料が残されていないため、現在の形がとられている。
この「うずみ門」に入ると(現在は入れないが)すぐ右折する一本道があり、北大手門方面へと導かれる。
つまり現在の監物台植物園の中に道が通っていたという事になる。左に曲がると棒庵坂である。
左奥が刑部家屋敷、現在の道路をまたぐような形で刑部家の分家(右門家)があり、その西に三卿家老・長岡監物家(米田)が並んでいた。

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現在は地震の影響もあって通ることは出来ないが、京町台から北大手門跡、頬当御門前を通って御幸橋から熊本市民会館前に抜ける幹線道路になっている。監物台植物園脇のこの道が唯一、築城当時から変更された通路といってもよいであろう。

                                                       


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■御侍帳・家紋から考える(1)

2019-04-29 12:48:38 | 家紋

 細川藩政史研究会が発刊した「熊本藩侍帳集成」には、家臣諸家の家紋を記したものが二件紹介されている。
一つは「肥陽諸士鑑」、これは成立期は末尾の書き込みから「宝永五年頃」とされる。一人一人について役職・屋敷・略系・知行高・知行所村高などと共に家紋が紹介されている。
今一つはそのものずばり「御侍帳(家紋いり)」というものである。1,140人分が紹介されいている。
65頁に及ぶ膨大なものだが、ここから1頁ずつ取り上げてご紹介したいと考えている。
実は家紋の正式な名称がほとんどわからず、ご存知の方のご教示を得たいという思い付きからである。

                  

                                                   

  ■岩間怡・弥左衛門・岩間次左衛門の三家は武田信玄の孫(六兵衛)を祖とするとされる。綿考輯録は次の様に記している。
     「武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、
      今度(忠利室・小笠原秀政女千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公(千代姫は姪・養女)より一通り六
      兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也」 
                                               (綿考輯録・巻二十八)
   家紋については武田家由緒の家として「肥陽諸士鑑」では武田菱が表示されているが、ここでは違う二つの紋が紹介されている。
   上は「隅切り平角に武田菱」、今一つは六個の武田菱が星型を作っているが名称はわからない。ご存知の方はご教示たまわりたい。

  ■岩間清次は「丹後以来」の家であり、岩間六兵衛系とは別系である。
   ここでは家紋が表示されていないが、「肥陽諸士鑑」では「三つ矢」(三ツ矢サイダーのマークのような・・)「三つ唐団扇」が紹介されている。

  ■岩越椿十郎・文左衛門・佐十郎は家紋が同じであり同族であろう。「隅切り角に二の字紋」である。
   椿十郎の祖・初代惣右衛門は島原の役で討ち死にしている(1,500石・番頭)

  ■岩佐土之允は7代目、祖父に竹内流弓術に長けた岩佐直軒(善助)が有名である。
   二代目源五が、原城にて武功御褒美被下候、後改善左衛門 新知弐百石(綿考輯録・巻四十九)
   家紋は釘らしいものが丸の中に横向き違いに入っている。「肥陽諸士鑑」ではこれが起きたものが記されているがどちらが本当か?

  ■岩田助之允は岩男助之允の誤植である。6代目か?
   家紋は銭紋か、簡単な形で良く見受けるが名称は知らない。
   今一つは五大家紋の一の酢漿草(片喰)紋の変形、石持ち酢漿草紋とでもいうのか。

  ■岩尾家は有名な剣豪・雲林院弥四郎を輩出した家系である。弥四郎の子(嫡家ではない)又五郎を祖として岩尾に改姓した。幾平太は5代目。
   家紋は「丸に三つ扇」

  ■岩下宇左衛門は3代目、
       岩下君恭 名は通靖、字は通恭、宇左衛門と称す。頗る文武の諸芸に通ず。食禄百石。
                時習館句讀師となり後訓導となる、文政四年十二月十日歿す。
                享年七十五。墓は廣町善正寺。
   家紋についてはよくわからない。植物系か?ご存知の方はご教示いただきたい。

  ■岩崎甚右衛門は「岩崎直衛(南東1-6)家」の7代目。
   家紋の名称についてはまったく承知しない。こうご教示・・・

  ■岩崎武兵衛は「岩崎橘次(南東1-7)家」の7代目。
       御鉄炮弐拾挺頭同列・御近習御次組脇 御中老支配御目付 三百石
   ここには二つの家紋が紹介されている。上方の家紋名称は不詳、下は「丸に中菱」とでもいうのだろうか。
   いずれも確たる名称を知らない。こうご教示・・・

  ■岩崎平四郎は「岩崎物部(南東1-5)家」は3代目か?肥後人名辞典には次の様にある。(初代の召し出しが遅いため・・・?)
       岩崎平四郎 名は元澄、藩に仕へて水前寺ろう締所御用掛を勤む。天保九年十一月四日没す。
   家紋は「五瓜輪(ごかわ)に丸」か?

  ■岩瀬栄蔵は5代目、定府であったらしい。
   家紋は「丸に三つ蔓付柏」これは間違いないと思うが如何・・・

  ■岩田満八は4代目か?
   家紋は「右一つ丁子巴」これも間違いないか

  ■稲垣寛助は「稲垣嘉内(東南3-14)家」の4代目、龍口白金御座敷支配役、御目付兼帯を勤めた。
   「肥陽諸士鑑」にもここにも家紋は紹介されていない。

 

  

 

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