津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■なに文選・・?

2019-04-02 17:14:09 | 史料

              仲春月 時氣晴

 新元号「令和」について、万葉集よりも二世紀も前の中国の「文選」に「令」「和」を用いた詩があることが報道されている。
万葉集がパクったということ?さてこれは政府はどう言い訳をするんでしょうかね?
我が国オリジナルだという言葉が危うくなってきた。安倍首相の理由付けもなんか空々しく思えてきた。
いろいろ言い訳がましいことをせずに、「文選」の存在を肯定して、説明を補強すべきであろう。
それにしてもこれが中国からの指摘ではなく、日本の研究者の指摘らしいからこちらは凄いと思う。
いろいろ研究論考も存在するようだ。

       

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■文字の不思議

2019-04-02 10:07:36 | 徒然

                           
                     永可知行者也(永く知行せしむべきもの也)

 昨日の元号発表に際して少々戸惑ったのが令の文字である。上記の文字は元和期の忠興公の宛行状にあるものだが、いまでいうと「教科書体」にあたるものである。
私は古文書に親しんでいるから、「令」という字体には少々違和感を感じてしまった。

引用された万葉集の原本らしいものを見ても下部が「マ」となった字体が使われていた。
今ではどちらを使っても間違いではないのだそうな。(書家・石川九楊氏談)
しかしIMEパッドに「手書き」で教科書体を書いても出てこないから厄介である。
子供たちが新元号を習字しているのを見ると、やはり教科書体であり「令」ではない。教科書体で勉強する子供たちは大いに戸惑うのではないか。
これを機会に明朝体・ゴチック体と同様に統一したらよかろうに・・・

付足し:ちなみにこの文字は「人偏」である。日本語は深い・・・  
 
                     毎日新聞から
       

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■永源師檀紀年録・巻之四(9)

2019-04-02 06:06:36 | 史料

 元亀
〇同年三月朔日大和入道宗薫居士卒ス、享年七十一、瑞松院殿前和州太守以南宗薫大禅定門ト号ス。居士ハ善    三淵晴員
 法寺殿ノ第三子也、慈母ハ三淵伊賀守後任大和守也女也、仍テ伊州ノ嫡兵部少輔殿ノ養子トナリ、母方ノ外戚の家
 ヲ継ク、其先キ掃部助持清[伝曰、持清ハ義満ノ落胤也]主ハ應永丁酉年ヲ以テ大樹諱ノ一字ヲ授ル、時年十八
 也、同己亥年引付頭人ト為ル、此ノ七月大和守ニ任ス、此レ大明使来聘ニ依テ此ノ事ニ預レハ也、其息男民
 部少輔晴重文才アルカ故ニ釣旨ヲ承テ所翰ヲ修メ大明ニ送ル、後チ大和守ニ任ス、晴重ノ息男能登守晴政初
 メ掃部助ト名リ、豪雄ノ人ナルカ故ニ此人ヲシテ山名ノ畠山ノ邸ヲ焚ク罪ヲ責シム、晴政ノ孫掃部頭後チ伊
 賀守・大和守ニ歴任ス、此ノ娘ハ元常主・晴貞主・晴員主等ノ慈母也、此ノ長男兵部少輔後チ掃部頭・加賀
 守ニ歴任ス、此ノ代ニ至テ泉州ニ於テ二千貫ノ領地ヲ食マシム、此レ管領高国主ノ計ヒ也、然シテ大居士ハ
 此加州ノ継嗣也、大居士初ハ掃部助ト名リ後チ伊賀守・大和守ニ歴任ス、又剃髪シテ大和入道宗薫ト号ス。
 天文戊戌七月ヲ以テ伏見城ヲ授ル、大居士ノ長男弾正左衛門ハ大樹ノ一字ヲ授カツテ藤之ト称ス、後チ藤英    嫡男・三淵藤英
 ト改ム、後チ大和守ニ任ス、累代大樹ノ昵近ニ仕候ス、藤英主ハ公務ノ暇ニ青龍寺屋形ノ治業ヲ佐ケリ、変    ニ男・屋形→細川藤孝
 葉旗下ニ属スレハ也、其令弟玉甫紹琮ハ大徳寺古渓和尚ニ投シテ得度ス、後チ高桐院ノ開基トナル、其次弟    三男・玉甫紹琮
 ハ南禅寺ノ悟心院ニ入寺出家シテ梅印元冲ト号ス、其ノ院主ト為ル、其次第ハ好重ト称シ、其次ハ女子也、    四男・梅印元冲 五男・三淵好重
 旗ノ紋ハチキリ也                                            女子(宮川殿か)
〇同年大樹重テ岐阜家ヲ亡ノ意アリ、屋形至諫ヲ納ル聴ズシテ悪ミ刹サントスルノ心アリ、茲年七月岐阜家上
 洛ス、大樹ハ日野家・高倉家ニ伊勢々々守・三淵和州ヲ副テ二條城ヲ守シメ、自ラ軍ヲ宇治ノ真木嶋ニ張ル、
 同月六日三淵藤英父子師ヲ坂本ニ出シテ藤英戦死ス、久昌院殿前和州太守玉海宗廣大禅定院ト号ス。此ノ日    三淵藤英戦死す
 居士ノ息ノ弥四郎秋豪主ハ会坂ニ戦死ス、岐阜家直ニ進テ二條城ヲ囲ム降ス、進テ真木嶋ヲ囲ム、大樹和ヲ    同息秋豪戦死す
 乞テ剃髪ス、晶山ト号ス。岐阜家ハ真木嶋ヲ細川六郎殿ニ守ラシム、屋形ノ家臣等屋形ヲシテ岐阜家ニ降ラ    足利義昭・信長に降し出家(足利将軍家・絶)
 シ事ヲ諫争スレトモ許容ナシ、仍チ与一郎殿ヲ勧テ従テ岐阜家ニ降ス、屋形此ヲ知テ青龍寺城ヲ岐阜家ニ献    藤孝昌山につかんとす
 シテ、建仁寺永源庵ニ退居シテ、大樹ヲ慕ヒ忍テ芸州ヱ赴ン事ヲ催ス、是故ニ屋形父子重テ弥不和ナリ。一    青龍寺城を信長に献す
 時ノ識者評シテ曰ク、間ニ藤孝ヲナマ賢人ノ言ヲ為ス甚哉人ヲ知ラサル事、今マ其ノ志操ヲ聞スハ感涙ヲ滴
 ツトナン、岐阜家ハ屋形ノ旅装ヲ聞テ討手ヲ向ハシメントス、光秀諫テ曰ク、不可ナリ藤孝ハ柔和仁勇ニシ    信長、藤孝を討たんとす
 テ当世ノ名将ナリ、且ツ禁廷ノ恩寵特ニ渥シ切ニ乞フ、慇懃ニ礼ヲ厚シテ招キ然ル可シ、彼レ麾下ニ属セハ    光秀諫言す
 御家ノ大幸何事カ此ニ如ント、岐阜家大ニ悦テ村井長州を以テ招ク、光秀モ溝尾庄兵衛ヲ使トシテ屋形ニ説    信長側藤孝を説得す
 ク、屋形止事ヲ獲ズシテ信長ニ降謁ス。岐阜家悦テ再ヒ青龍寺ヲ授ク。                    藤孝信長に降謁
   今度彼対信長被抽忠節誠神妙之至候、仍城州之内桂川西地之事、一職申談候、全領地不可有相違之状、    桂川西地を拝領
   如件 元亀四年七月十日 屋形名 信長花押
 又長岡ノ称号ヲ授ク、更ニ多年ノ戦功ヲ賞労シテ桑田・舟井ノ二郡ヲ授ク。屋形此ノ二郡ヲ辞ス、或時屋形    長岡の称号を授けらる
 ヨリ光秀ニ語テ曰ク、各知レル所ノ如ク吾家ハ室町ヨリ出テルカ故ニ大樹ハ主ナリ親族ナリ、是モ以テ死生
 存亡ヲ大樹ト倶ニシテ始終ヲ見タテマツル可キ処ヲ却テ怨家信長公ニ奉スル事、誠ニ慚愧スル所ナリ、光秀
 論答ス。

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