津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「味土野(みどの)ガラシャ大滝」の展望所と遊歩道が完成

2019-04-17 13:39:19 | 新聞

ガラシャゆかりの地の滝で開眼法要 京都・京丹後    毎日新聞から

 京都府京丹後市弥栄町味土野の「味土野(みどの)ガラシャ大滝」の展望所と遊歩道が完成し、展望所で16日、開眼法要が営まれた。市観光協会弥栄支部が整備を進めていたもので、近くには駐車場も設けて観光客誘致につなげたいという。

 大滝は標高約400メートルの山中にあり、地元では「味土野大滝」と呼ばれ、落差は50~60メートルある。住民によると、以前は滝つぼに大きなアマゴがたくさんおり、手づかみで捕っていた。木が生い茂る季節は府道から見えにくくなるため、弥栄支部が展望所を開設することになった。

 弥栄支部長の梅田肇さんによると、地元の野間連合区などと「麒麟(きりん)がくる京丹後プロジェクト推進協議会」をつくり、大滝を新しく「味土野ガラシャ大滝」と命名した。来年のNHKの大河ドラマが戦国武将・明智光秀の生涯を描く「麒麟がくる」と決まったためで、光秀の娘のガラシャが本能寺の変の後に幽閉された味土野を観光資源として生かすことが狙いだ。

 梅田さんによると、ガラシャが幽閉された女城をはじめ、護衛の武士が詰めたとされる男城の案内板などの整備も進め、総事業費は約300万円。施設の維持、管理は推進協議会で行う。女城には府立宮津高建築科によるあずまやの建設も予定している。ただ、展望所に至る府道は狭く、急な坂が続くため、整備が課題となっている。

 この日の開眼法要には20人が参列。味土野出身の木下肇さん(93)は「山の奥に眠る古里が世に出してもらい、見違えるようになった」とあいさつした。【塩田敏夫】

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■永源師檀紀年録・巻之四(22)

2019-04-17 11:46:12 | 史料

  慶長五年
〇同年九月内府公軍ヲ関ヶ原南宮山北ニ張ツテ、藤堂・本多・福嶋ヲ以テ前隊ト為シ、忠興主及ヒ黒田・金森    関ヶ原の戦
 ・田中・竹中ハ二ノ前隊ト為ス、酒井雅楽頭ハ命ヲ承テ息ノ阿州ヲ将ト為シテ兵ヲ此レニ附シ、以テ是レカ
 軍令ヲ細川玄蕃頭興元主二聴カシム、其ノ他ノ佐久間父子ハ土井ニ、立花飛州ハ本多野州ニ軍令ヲ差拝ス、
 此ノ軍令ヲ主ルノ三将ハ当世傑出ノ雄将ナレトモ、今マ浪子ナルカ故ニ如此也、此ノ十五日辰刻ヨリ箭鋒ヲ
 交ユ、興元主ノ軍隊ニ就テ佐久間ト法ヲ論ス、内府公ノ法ニ曰、前隊ハ土井、其ノ次ハ酒井ト、然ル二興元
 主ハ土井ノ軍ノ右ニ備ヘリ、是ヲ以テ土井ノ軍監佐久間父子快ヨカラズ謂テ曰、玄蕃頭殿軍法ヲ背ケリト、
 興元主聞ザルガ如ス、佐久間怒テ軍使ヲ本陣ニ馳セ訟フ、土井此ヲ酒井ニ告ク、雅楽頭驚キ往テ説テ曰、軍
 法ナレハ私法ヲ挟事勿レ、只乞フ、土井ノ後ニ備へヨト、興元主曰、前陣後陣ハ必シモ前後ニ隊ルヲノミ法
 ト為スニ非ス、地形ニ依テハ幾クヤウニモ隊ル也、前陣ハ左リ後陣ハ右ニ隊ル事是レ亦珍シカラズ、敵ニ会
 フ事ノ前後ヲコソ論ジツ可シ、刃ヲ交へ土井ノ軍ノ退ザルニハ此ノ軍ハ一兵ヲモ戦カハセジ、此レハ是レ法
 ヲ背クニ非サル也、其ノ證ハ目前ニ在ント、言訖ラザルニ左軍果シテ敗レヌ、佐久間父子令スト云へトモ終
 ニ崩レ退ク、右陣ノ阿州ノ隊ハ他ニ転ゼラレズ。其ノ能キ度ヲ見テ突戦ス、阿州モ又タ躬ラ能戦テ竒功多シ、
 興元主ハ兵ニ令シ且ツ戦ヒ大ニ功勲ヲ立セヌ、内府公ノ馬ヲ進ムルノ路傍ニ壮士ノ首ヲ提テ畔ニ蹲踞スルア
 リ、方二知ル今己ニ功ヲ策スナル事ヲ命ヲ承テ安藤帯刀是ヲ問フ、曰ク興元ノ家士加藤采女也ト、内府公此
 ヲ褒メ曰、勇士ナリト、此ノ日諸将各進ミ戦フ、福嶋・京極・藤堂ハ西方ニ進ミ、忠興主ハ山ノ手ノ石田・
 小西・安国寺カ堅陣ニ進ミ、近キ浮田・嶋津ヲ隔テヽ直チニ入ル、石田ノ家臣嶋左近・同新吉ハ兵ニ一歩モ
 退ザラン事ヲ令シテ死亡ヲ省ズシテ力戦スト云へトモ、忠興主躬ラ士卒ニ先千膽前忽後縦横無碍ニ旋轉シテ
 戦カ故ニ敵ノ隊へ紛レリ、此ノ時松平下野守此レニ横ニ当テ苦戦シテ勢ニ乗シ進事度ヲ失ヒ敵却テ囲ミ伐ン
 ト欲シテ幾手危シ、忠興主鎗ヲ提テ奮戦フ群ヲ為シテ進メル、敵崩レ破テ紛レ走ル、因テ野州ハ免得テ完シ
 其ノ南ニ備ヘル、藤堂玄蕃ハ此ノ紛レ走ヲ看テ今マ此ヲ伐ツノ能キ度ナリト云テ、士卒ヲシテ前後ヲ一同二
 崩して馳セ撃タシム、嶋新吉此ニ命ヲ殞ス、黄門秀秋俄然トシテ隊ヲ改メテウラキリヌ、依之平岡石見守・
 稲葉佐渡守・脇坂・朽木・小川等モ相沿テ秀秋ニ慣フ、石田カ軍イロメキタツテ大ニ敗亡ス。石田・小西・
 安国寺ヲ活捉ス、此ノ行ヤ内府公旗本ニ列スル所ノ古田等ノ三十七人各功名ヲ策ス、福嶋ハ陣ヲ浮田ニ、井
 伊ハ大谷ニ応シテ戦ヒ、黒田・浅野ハ軍ヲ関ヶ原駅路ノ東ニ張リ、藤堂ハ前隊ニ処シテ陣ヲ駅路ノ南ニ備へ、
 野州ハ内府公ノ右軍ニ備へテ戦フ、其ノ他ノ池田・京極等各々大ニ勝利アリ、此ノ十六諸侯ノ中、忠興主ハ
 戦功最モ群ヲ出ツ、如何ントナレハ忠興主ハ石田・長束ヲ一面ニ対シ横ニ小西・安国寺ヲ接シ、向前シテ隊
 ヲ張リ出ス事六町ニシテ躬ラ敵ニ当テ魁シテ其ノ最モ堅軍ト称スルヲ先ツ破ル、此ノ勝利ニ乗シテ諸軍各励
 ミ伐テ功ヲ立タルナリ、家々功ノ勝レルヲ自負シテ其ノ説紛々タリト云へトモ、兵事ニ老タル人ニ非サルヨ
 リンハ争カ此ノ優劣ヲ弁別センヤ、忠興主ノ長男与一郎忠隆主ハ秀忠公ニ従軍シ、次男与五郎興秋主ハ忠興
 主ニ従軍シテ倶ニ戦功アリ、秀忠公賞帖ヲ忠隆主二授ク。此ノ主曽テ羽柴ノ称ヲ秀吉ヨリ授リ、従五位下ニ
 叙シ、侍従ヲ行ス、父ト不和ノ故ニ剃髪シテ休無ト号シテ輦下ニ隠棲ス。内府公此回ヒ吾カ軍ニ得ル所ノ首
 級ヲ点検ス、午後ニ逮テ諸侯聚リ至ル、本田・井伊執達シテ諸侯ノ功績ヲ言ス、就中忠興主ノ戦功ミドコロ
 アリト公列侯ヲシテ席ニ進マシメテ各慰労ス、忠興主・正則倶ニ謂テ曰、公ノ武運ノ然スル所ナリ曷ソ臣等
 カ微功ニ預ラント、公大ニ悦フ、忠興主ヲ召シテ曰、汝カ乃父志ヲ我ニ通シテ募兵ナリト云へトモ田辺ヲ守
 リテ堅シ、辱ク勅命ヲ奉シテ其ノ完全ヲ得ル時、偏ニ文武及ヒ風雅ノ道兼備ノ誉レ高キ故ナリト、重テ忠興
 主ハ内府公ニ白シテ言ク、臣願クハ他ノ兵ヲ雑ヘズシテ小野木ヲ福知山ニ征伐セント、公聴ルス、仍テ内府           福知山城を攻撃す
 公ニ扈従シテ入洛ス、直ニ師ヲ丹波ニ出ス、三條ノ通衢ヲ経ルノ時キ門ヲ鎖シテ妨ルノ所ハ撃碎シテ過クル
 カ故ニ、都下大ニ擾走ス。福知ヲ囲テ昼夜ヲ捨ズシテ戦フ、小野木ハ内府公ニヨシミ有ルヲ頼ンテ山岡道阿
 弥ニ託シテ降シ剃髪シテ忠興主二謁ス、内府公思惟スラク、此ヲ宥恕センカ否也、忠興主連枝ノ怒リ解シ難
 カルベシ、如カジ此ヲ殺ニ遂ニ此カ首ヲ石田・小西・瓔甫等ト共ニ梟ス、同十六日ニ於テ内府公ノ東征ニ従    小野木公郷切腹す
 軍スル諸侯ヲ封ス差アリ、忠興主二豊前闔国ヲ領セシム、木槻ノ領地ハ元ノ如シ、以テ丹後ヲ捨シム。
   (九月)
〇同年十一月十八日豊後ノ国人等旧主大友ノ為ニ一揆ヲ起シテ、柴田小太郎ヲ酋トシテ大友ノ長臣吉弘等ト共    石垣原の戦
 ニ軍ヲ石垣原立石ニ張ル、又タ木槻領ヲ押妨セント欲ス、忠興主ノ元臣松井佐州・有吉武州等戦ヲ挑ミ、此  
 ヲ破テ進テ立石ヲ襲テ陥リ、柴田ヲ撃ツ、直ニ師ヲ石垣原ニ出シテ黒田如水ノ兵ト会シテ共ニ吉弘加兵衛ヲ
 襲フ、如水ノ臣井上防州鎗ヲ交ヘテ吉弘ヲ刺ス、遂ニ城ヲ屠ル。

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■享保の火事(1)

2019-04-17 06:49:42 | 歴史

 昨日私はノートルダム大聖堂の火事のニュースを聞きながら、奇しくも「火事」に関する記事を書いていた。
自分史をまとめる中で、我家の三代目・又之允が享保の火事に際し類焼の災難にあっているし、初代の姪にあたる龍源院(兄・磯部長五郎女・熊)が創建した宗厳寺も灰燼に帰した。そんなことも記録しておこうと思った所以である。

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 享保14年(1729・宣紀代)4月28日、熊本は大風に見舞われる中藪ノ内から出火、屋敷1,380ヶ所、総家数2,584軒という大火事となった。
                                           (雑花錦語集)(肥後国誌・上巻p102)
肥後国誌は雑花錦語集を引用しているが、その雑花錦語集の記事は松本寿三郎氏によって「熊本市史」に「手取・薮内火事類焼の面々」として紹介されている。
享保年間の絵図は見受けられないが、延宝六・七年の作と推定される「手取・千反畑・外坪井之絵図」を見ると、現在のホテルキャッスルから九州郵政局あたりに「御台所衆」の屋敷が集中して見える。このあたりが火元か?
私の遠い親類に「塙」氏が居るが、これが火元のご先祖様ではないかとも思ったりしている。
この一文をご紹介するが、皆様のご先祖様の名前がないことをお祈りする。名簿が長大であるため三回に分けてご紹介する。

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  手取・薮内火事類焼の面々
 享保十四己酉年四月廿八日午ノ上刻、手取於薮内御台所方役塙善左衛門屋敷より火事出来、同日申ノ下刻火鎮ル、右之節類焼之面々

   堀内弾蔵     永井平右衛門   塩山市右衛門
       裏長屋計
   益田忠右衛門   堀部右学     渡部左大夫
   右田左一右衛門  松本杢兵衛    検校屋敷
       上り屋敷
   相良又左衛門   佐野安右衛門   松岡儀右衛門
   粟津嘉次郎    後藤喜左衛門   増田庄次郎
   山崎万七     桑木源太右衛門  塩山勝之允
   上村理右衛門   河本真左衛門   清田清兵衛
   高森弥右衛門   永松久悦     住谷庄右衛門
   小嶋伊左衛門   御臺所方屋敷   御切米取屋敷
       上り屋敷      十九ヶ所      弐ヶ所
   御路次之者屋敷  歩御使番屋敷   朽木内匠
       拾ヶ所       壱ヶ所
   戸波十右衛門   宗岳寺      佐分利平右衛門
                         表長屋計
   新坪井米屋町   地蔵院      新坪井魚屋町
   佐藤軍平     橋本角大夫    吉田藤右衛門
   松原勘助     中村作右衛門   新坪井八百屋町
   松原安大夫    中西傳左衛門   歩御使番屋敷
                         十八ヶ所
   歩御小姓屋敷   御掃除組屋敷   御掃除坊主屋敷
       十壱ヶ所         十八か所        壱ヶ所
   東岸寺      新坪井鍛冶屋町横町 永福寺
   永屋勘平     宗厳寺      中川武兵衛
   甲斐弥次兵衛   内尾儀兵衛    竹原清大夫
   内膳家下屋敷   真藤又之允    児玉四郎兵衛
   神山園右衛門   松下伴右衛門下屋敷 宇佐川忠右衛門
   鯛瀬宇兵衛    清田角大夫    即生寺
   宝光院庚申堂   糸橋       御切米取屋敷
             (寺原)          八ヶ所
   御切米取屋敷   足軽屋敷     地子屋敷
        六ヶ所       六十ヶ所         四ヶ所
   手嶋喜大夫    東 又左衛門   山内次右衛門
   山口元節     西村兵右衛門   安東五助
   財津平右衛門   小野三右衛門   井上又十郎
   堤 孫左衛門   米村兵作     山内仁右衛門
   堤 新平     崎村茂右衛門   蒲池喜左衛門
   小原勘右衛門   上野勘右衛門   緒方平兵衛
   歩御小姓屋敷   御切米取屋敷   御掃除坊主屋敷
        三十三ヶ所        三十七ヶ所        壱ヶ所
   流長院      壽昌院      浄国寺
   順恩寺      快宝院      鏡照院
   真光寺      良善坊      常永寺
   足軽屋敷     水足庄三郎    内膳殿下屋敷
       百八十ヶ所
   山中彦十郎    上田弥右衛門   後藤丞右衛門
   津田治左衛門   大宮司屋敷    横田平助
   宇田四右衛門   永江宗愚     水足半助
   竹田津次左衛門  河崎作之允    中津海三右衛門
   瀬戸源左衛門   飯銅上右衛門   小林半右衛門
   加来佐左衛門   志方半兵衛    一村弥三兵衛
   

     

 



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