昨日私はノートルダム大聖堂の火事のニュースを聞きながら、奇しくも「火事」に関する記事を書いていた。
自分史をまとめる中で、我家の三代目・又之允が享保の火事に際し類焼の災難にあっているし、初代の姪にあたる龍源院(兄・磯部長五郎女・熊)が創建した宗厳寺も灰燼に帰した。そんなことも記録しておこうと思った所以である。
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享保14年(1729・宣紀代)4月28日、熊本は大風に見舞われる中藪ノ内から出火、屋敷1,380ヶ所、総家数2,584軒という大火事となった。
(雑花錦語集)(肥後国誌・上巻p102)
肥後国誌は雑花錦語集を引用しているが、その雑花錦語集の記事は松本寿三郎氏によって「熊本市史」に「手取・薮内火事類焼の面々」として紹介されている。
享保年間の絵図は見受けられないが、延宝六・七年の作と推定される「手取・千反畑・外坪井之絵図」を見ると、現在のホテルキャッスルから九州郵政局あたりに「御台所衆」の屋敷が集中して見える。このあたりが火元か?
私の遠い親類に「塙」氏が居るが、これが火元のご先祖様ではないかとも思ったりしている。
この一文をご紹介するが、皆様のご先祖様の名前がないことをお祈りする。名簿が長大であるため三回に分けてご紹介する。
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手取・薮内火事類焼の面々
享保十四己酉年四月廿八日午ノ上刻、手取於薮内御台所方役塙善左衛門屋敷より火事出来、同日申ノ下刻火鎮ル、右之節類焼之面々
堀内弾蔵 永井平右衛門 塩山市右衛門
裏長屋計
益田忠右衛門 堀部右学 渡部左大夫
右田左一右衛門 松本杢兵衛 検校屋敷
上り屋敷
相良又左衛門 佐野安右衛門 松岡儀右衛門
粟津嘉次郎 後藤喜左衛門 増田庄次郎
山崎万七 桑木源太右衛門 塩山勝之允
上村理右衛門 河本真左衛門 清田清兵衛
高森弥右衛門 永松久悦 住谷庄右衛門
小嶋伊左衛門 御臺所方屋敷 御切米取屋敷
上り屋敷 十九ヶ所 弐ヶ所
御路次之者屋敷 歩御使番屋敷 朽木内匠
拾ヶ所 壱ヶ所
戸波十右衛門 宗岳寺 佐分利平右衛門
表長屋計
新坪井米屋町 地蔵院 新坪井魚屋町
佐藤軍平 橋本角大夫 吉田藤右衛門
松原勘助 中村作右衛門 新坪井八百屋町
松原安大夫 中西傳左衛門 歩御使番屋敷
十八ヶ所
歩御小姓屋敷 御掃除組屋敷 御掃除坊主屋敷
十壱ヶ所 十八か所 壱ヶ所
東岸寺 新坪井鍛冶屋町横町 永福寺
永屋勘平 宗厳寺 中川武兵衛
甲斐弥次兵衛 内尾儀兵衛 竹原清大夫
内膳家下屋敷 真藤又之允 児玉四郎兵衛
神山園右衛門 松下伴右衛門下屋敷 宇佐川忠右衛門
鯛瀬宇兵衛 清田角大夫 即生寺
宝光院庚申堂 糸橋 御切米取屋敷
(寺原) 八ヶ所
御切米取屋敷 足軽屋敷 地子屋敷
六ヶ所 六十ヶ所 四ヶ所
手嶋喜大夫 東 又左衛門 山内次右衛門
山口元節 西村兵右衛門 安東五助
財津平右衛門 小野三右衛門 井上又十郎
堤 孫左衛門 米村兵作 山内仁右衛門
堤 新平 崎村茂右衛門 蒲池喜左衛門
小原勘右衛門 上野勘右衛門 緒方平兵衛
歩御小姓屋敷 御切米取屋敷 御掃除坊主屋敷
三十三ヶ所 三十七ヶ所 壱ヶ所
流長院 壽昌院 浄国寺
順恩寺 快宝院 鏡照院
真光寺 良善坊 常永寺
足軽屋敷 水足庄三郎 内膳殿下屋敷
百八十ヶ所
山中彦十郎 上田弥右衛門 後藤丞右衛門
津田治左衛門 大宮司屋敷 横田平助
宇田四右衛門 永江宗愚 水足半助
竹田津次左衛門 河崎作之允 中津海三右衛門
瀬戸源左衛門 飯銅上右衛門 小林半右衛門
加来佐左衛門 志方半兵衛 一村弥三兵衛