今治市の村上水軍博物館は、村上海賊最大の合戦とも呼ばれる天正四年(1576)の第1次木津川口合戦を描いた「難波船軍図」を新たに収蔵したことを発表するとともに、4月27日~6月23日、同博物館常設展示室で公開するとしている。
能島村上氏の村上景広も名を連ねているそうだが、図録など出ないかと期待している。
細川家では、豊前に入国後知行が増えたことによる家臣不足により多くの侍が招聘された。
詳細については当サイト内の「肥後細川藩 戦国武将の裔」でご紹介しているのでこちらをご覧いただきたいが、著名な人物および関係者が綺羅星のごとく名を連ねている。
そんな中、毛利家家臣で小早川隆景の船大将を務めた浦宗勝の子浦主水をご紹介したにもかかわらず、この村上景広を忘れていたという大チョンボを犯していた。
村上景広も小早川家に仕え、小早川氏の没落後慶長六年豊前小倉に召し出され、10,000石を扶持された。
寛永四年十月朔日没。年七三。
景広の没後、その知行10,000石についての三齋と忠利の詳しいやり取りが史料として残されているからご紹介しよう。
三齋は景広の嫡男・河内に相続させようとしているが、その河内とは大阪の役で高名をあげた村上縫殿介・景則のことである。
綿孝輯録には「七月朔日、昨日御吟味の面々御饗応、御褒美品々被下候覚書」に一番高名の清田石見に続いて縫殿介の名がみえる。
「知行二千石御腰物三原 村上縫殿介景則後長岡河内 鑓ヲ合、高名ハ無之、疵三ヶ所(ィ二)、刀二鑓疵二ヶ所(ィ三)」
以下の忠利書状の「縫殿」、三齋書状の「河内」は同一人物、八左衛門息・長岡河内(村上縫殿介)である。
■三齋宛忠利書状 (大日本近世史料-細川家史料241、綿孝輯録巻二十一・p126)
村上八郎左衛門相果申候、左様ニ御座候へハ縫殿事御名字をも被下、大坂にても御用にも立、御取立之儀ニ御座候へ共、可被遣御知行も無御座儀ニ候條、八郎左衛門知行之儀御心まゝニ被遣候て、被召仕候様ニと奉存候間得御内儀申候、役儀之儀ハ、被仰付被下候様ニと存儀ニ御座候、来年御普請前にても御座候間、只今得御意候、以上
霜月十二日
貴田権内殿
■忠利宛三齋書状 (大日本近世史料-細川家史料515、綿孝輯録巻二十一・p126)
八郎左衛門果候ニ付、河内事親取候一万石之知行我々申次次第可被遣由、先以祝着申候、乍去、我々為にハ人足ニ遣候ても侍ニ遣候ても不苦者ニ候へとも、其方事ハ心替り候間、過分之知行はや遣候事もいかゝ候ハん哉、但我々果候後ニハ、只今我々取候三万七千石之内如約束二万五千石天二遣、残ル一万二千石之内一万石分、其方頼置、河内ニ可遣と在所付まて書遣置候条、乍次而申候、如此ニも可在之候哉、とかく中津へ参、ぬしニも此懇之通申きかせ、来年御普請ノ役儀ニさゝハらさる程ニ返事可申候事
尚々、書付今朝杉伯江参、返事延引申候、已上
十一月十二日 三齋(御判)
越中殿
返事
つまり大坂役に於いて高名を上げた縫殿介は2,000石を拝領し、寛永四年父景広(八郎左衛門)が亡くなると、三齋の意向により10,000石を継承したのである。終生三齋に近侍し八代に於いては家老職を勤め、三齋亡き後の処理に奔走し当時の当主・光尚や藩庁との軋轢を生じ、離国することになる。
しかしながら景広の血は景則の弟・吉之允正重によって細川家臣として孫四郎家と弁蔵家が明治に至っている。
平内正雄を宮本武蔵から寺尾求馬介信行→新免弁助をへてその技を継承して高名である。
長岡河内
村上景廣--+--縫殿介景則
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+--吉之允正重--吉之允正之--平内正雄--+--平内正勝--+--平内正則・・・・・・・・・・・・・・・・→孫四郎家
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| +--八郎右衛門正之--大右衛門正保--貞助・・・→弁蔵家
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+--吉之允正房