津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■裏松従二位宛細川護久書状

2019-04-22 09:40:50 | オークション

 昨日迄ヤフオクに出品されていた裏松従二位宛の細川護久の書状である。
裏松従二位からの書翰にたいする返信の書翰だが、こういうものを眺めるといろいろ詮索をしたくなる。 

                                   

 細川護久の署名には新従四位とあるが、従四位下に叙されたのは慶応三年六月十一日である。同時に右京大夫喜廷と称している。
処が翌二年二月七日には元の護久に復している。この書状は慶応三年三月十五日のものではなかろうか。
宛先の裏松従二位とは裏松恭光であろう。文久元年に従二位となり、慶応三年には権大納言となっているがその直前か?
明治五年が没年だから間違いなかろう。

裏松家は細川忠興女・万姫が嫁いだ烏丸光賢との間に生まれた次男・資清を初代としており、細川家とのかかわりは深い。
その子・意光には長岡寄之女が嫁いでいる。(世界帝王辞典・裏松家項では長岡康之とあるが間違いである。)
寄之は忠興の子で松井興長の養嗣子となった。末子(七男)と紹介されることが多いが、実は六男であり、刑部家祖の興孝が七男である。

万姫が烏丸家に嫁いで以来の古い交流が見て取れる。


   忠興---+---忠利・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 細川家
                  |
       +------万
       |   ‖-----------+----資慶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→烏丸家
       |  烏丸光賢   |
       |         +----資清・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→裏松家
       |            ‖
       +---寄之-------------------●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→松井家(細川家三卿家老・八代城主)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■享保の火事(3‐了)

2019-04-22 07:02:52 | 史料

消失の屋敷火本共ニ 千三百八拾ヶ所
一消失の家数     二千五百八拾四軒
  内
 屋敷数三百三拾九ヶ所
   御知行取屋敷、御中小姓御用屋敷共ニ
  此家数千三百三拾七軒
   内 拾九軒蔵
     壱ヶ所御賄物所、同所之御音信所

     御賄物所家数八軒 御音信所共ニ
      内五軒御蔵 外ニ御蔵一軒残り申候
 同壱ヶ所 竹小屋 此家一軒
 同御掃除方会所  此家数三軒
 同百八拾四ヶ所 御切米取屋敷 此家数弐百六拾弐軒
 同四百拾五ヶ所 足軽屋敷 此家数四百拾五軒
 同弐拾五ヶ所  御路次之者・御掃除之者、諸手伝共
              此家数弐拾五軒
 同弐拾四ヶ所  地子屋敷 此家数弐拾四軒
 同三拾壱ヶ所  寺院山伏共ニ 此家数百拾八軒 内壱軒ハ蔵
 同三百四拾三ヶ所 御町屋敷  此家三百六拾七軒
   外ニ三拾六軒ハ
  京町一丁目軒数六拾七軒    但、間数弐百三拾七間余
  京町二丁目軒数四拾四軒    但、間数百六拾八間余
  今京町  軒数六拾壱軒    但、間数弐百八間余
  今京町ニ付居候地子屋敷    軒数弐拾三軒
  本坪井町 軒数三拾九軒    但、間数百三拾六間
  新坪井町 軒数百三拾三軒   但、間数五百拾四間余
  橋弐ヶ所 京町観音坂下橋 寺原糸橋
 新坪井八百屋町より西ハ御堀端 東西弐丁程迄
                      中通ニ而  
 藪之内橋際より北ハ真浄寺際迄 南北五丁迄

 本坪井町より西ハ糸橋際迄   東西一丁半程
                      中通ニ而  
 同所ニ而焼口より北ハ足軽小路 南北三丁半程迄

 内坪井兼松七右衛門屋敷より  東西三丁程
 西ハ大木隼人下屋敷迄           中通ニ而  
 津田次左衛門屋敷より北ハ流長 南北六丁程
 院迄

 寺原糸橋より西ハ寿昌寺迄   東西壱丁半程
                      中通ニ而  
 井上又十郎屋敷下より北ハ足軽 南北五丁程
 小屋迄

 京町松野主殿屋敷より西ハ足軽 東西六丁程
 小屋迄                  中通ニ而
 稲津角之允屋敷より北ハ出京町 南北七丁程
 入口構際迄

 一焼死之者九人 内七人ハ男、家中之侍幷町人末々之者
          二人ハ女、家中之者
 一怪我人拾壱人 内九人ハ男、家中之侍幷町人末々之者
          二人ハ女、家中之者
 一死牛馬・怪我牛馬共ニ無之候
   外ニ
 一屋敷数三ヶ所 飽田郡牧崎村之内沼田勘解由下屋敷飛
         火ニ而消失、此家数五軒
 一屋敷数七竈
      同郡京町村之内飛火ニ而焼失、此家数七軒
 右両所ニ而死人・怪我人幷死牛馬・怪我牛馬等無之候

 一岩立向臺寺下 奥田小左衛門組三拾弐人但、小頭共ニ
 一寺原庚申橋之西
       中村市郎右衛門組三拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原大工町北 嶋又左衛門組三拾弐人 但、小頭共ニ
 一岩立    熊谷忠右衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原    中川佐左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原田畑  安富孫左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原材木丁 松本助左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一岩立    氏家平九郎組弐拾弐人  但、小頭共ニ
 一釈将寺下  志水兵大夫組弐拾弐人  但、小頭共ニ
 一寺原    飯銅上右衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一西方寺下  坂牧瀬左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一岩立常水寺前 一宮源四郎組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原    松岡久左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原    芳賀助十郎組拾壱人   但、小頭共ニ
 一岩立    大村伊右衛門組拾壱人  但、小頭共ニ
 一岩立    成瀬次郎左衛門組拾壱人 但、小頭共ニ
 一岩立    興津弥五右衛門組拾壱人 但、小頭共ニ
 一岩立    兼松七右衛門組拾壱人  但、小頭共ニ
 一瀬戸口   吉田孫四郎組拾壱人   但、小頭共ニ
 一瀬戸口   田中小左衛門組拾壱人  但、小頭共ニ
 一瀬戸口   浅香忠兵衛組拾壱人   但、小頭共ニ
 一瀬戸口   堀田勘兵衛組拾壱人   但、小頭共ニ
  人数四百拾五人 但、小頭共ニ
  三拾挺三組 弐拾挺十組 拾挺九組 合弐拾弐組

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする