昨日迄ヤフオクに出品されていた裏松従二位宛の細川護久の書状である。
裏松従二位からの書翰にたいする返信の書翰だが、こういうものを眺めるといろいろ詮索をしたくなる。
細川護久の署名には新従四位とあるが、従四位下に叙されたのは慶応三年六月十一日である。同時に右京大夫喜廷と称している。
処が翌二年二月七日には元の護久に復している。この書状は慶応三年三月十五日のものではなかろうか。
宛先の裏松従二位とは裏松恭光であろう。文久元年に従二位となり、慶応三年には権大納言となっているがその直前か?
明治五年が没年だから間違いなかろう。
裏松家は細川忠興女・万姫が嫁いだ烏丸光賢との間に生まれた次男・資清を初代としており、細川家とのかかわりは深い。
その子・意光には長岡寄之女が嫁いでいる。(世界帝王辞典・裏松家項では長岡康之とあるが間違いである。)
寄之は忠興の子で松井興長の養嗣子となった。末子(七男)と紹介されることが多いが、実は六男であり、刑部家祖の興孝が七男である。
万姫が烏丸家に嫁いで以来の古い交流が見て取れる。
忠興---+---忠利・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 細川家
|
+------万
| ‖-----------+----資慶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→烏丸家
| 烏丸光賢 |
| +----資清・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→裏松家
| ‖
+---寄之-------------------●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→松井家(細川家三卿家老・八代城主)