津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■夕方散歩

2019-04-06 17:33:47 | 色・いろいろ



                         桜吹雪で歩道はピンクの花びらで埋め尽くされています。

                                                    
                                               

                            反対側の歩道ではつつじが咲き始めて競い合っています。

 もうそろそろ皆勤の散歩も300日を超えたのではないかと思うが、最近は時間が定まらない。
今朝も6時前には起きたのだが、土曜日とあって奥方の起床は遅いしこちらものんびりしていた。
なんとなく時間を過ごしていたが、散歩を忘れかけていて夕方になってカメラを持って又花見がてらに歩く。

昨日今日、風鈴がやかましいほど風があって、満開状態の桜が散り始め、歩道はじゅうたん状態とはいかぬまでもピンクの花びらで敷き詰められている。
歩道の植え込みのつつじも日当たりの良いところは花を開き始めている。ここ二三日でこちらも七八分さきと言ったところか。
あたたかくてウインドブレーカーは腰に巻いて、一時間弱の散歩とない成った。
明日は最後の花見のチャンス、熊本の花見の名所でもあるここ健軍自衛隊通りはさぞかし賑わうことであろう。
桜のレポートもそろそろ終わりにしよう。

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■永源師檀紀年録・巻之四(13)

2019-04-06 07:01:08 | 史料

 天正四年
〇同年丹後田辺城主一色左京大夫義道ノ属士等世ノ変ニ慣テ一色ノ命ヲ承ケズ。
 一色ノ祖兵部少輔範光ハ足利ノ一族ニシテ丹後ノ国主ニ封セラル、其ノ嗣詮範ハ四職ノ一員ニ任セラル、応仁ノ変ニ其裔義直功績ヲ立ツ、
 義直ノ子五郎義春家督シテ発逝ス、是ヲ以テ従弟義季其武ヲ踏ム、其子義幸ニ至テ尚ヲ治マレリ、其子今ノ義通ニ至テ属士世ニ習テ乱ル
 安土家此ノ弊ニ乗シテ屋形父子及ヒ明智家ヲ辟シテ云ク、丹後ヲ以テ屋形ニ封セン。光秀ハ夫ノ聟ヒキデト
 シテ力ヲ藤孝父子ニ戮テ兵ヲ厲マシ両旗ヲ以テ征伐セヨト、各謝答ス、屋形ハ青龍寺ニ還テ家臣有吉四郎左
 衛門・米田助右衛門・藤木又左衛門・相田権内・高野瀬三郎右衛門等ノ七百余兵ヲ率ヒ丹波路ヲ経過シテ征
 ス、明智家ハ江州坂本ヲ発シテ分テ三隊ト為ス、明智左馬・並河掃部及ヒ息ノ八助・村上和泉・隠岐五郎兵
 衛等千五百兵ヲ以テ一隊トシ、明智次右衛門・四王天但馬・同又兵衛・波々伯部権頭・三牧三左衛門等千五
 百兵ヲ以テ一隊トス、則チ福智山ヲ発シテ不好峠ヲ踰ヱ宮津ニ出ツ、光秀ハ荒木山城・藤田伝五・伊勢与三
 ・三宅藤兵衛・溝尾庄兵衛・進士作左衛門・奥田宮内等三千余騎ヲ帥ヒ檜山ヲ經テ軍ヲ田辺ニ近キ梅坂ニ屯
 ス、義道ハ大兵ノ至ルヲ聞テ出テヤ戦ント思惟シケルニ、只常ノ恩惠ヤ薄カリツ兵士多くハ逃亡シヌ、此ニ
 於テ城ヲ枕ニシテ戦死セン事ヲ決シテ残兵三百余ヲ以テ城ヲ防ク、屋形ノ父子急ニ奮ヒ撃ツ、然モ要害堅ケ
 レハ抜ケ難シ、屋形謀テ一方ノ囲ヲ解テ城兵ノ此ヨリ逃レン事ヲ要シ、其ノ路ニ伏兵シテ子遺ナク撃ント欲
 ス、忠興主及ヒ頓五郎殿ハ箭鋒ノ雨ノ下ル如ク身ニ迫ルヲ厭ワズ力戦シテ諸卒ニ先テ一二ノ郭ヲ乗トレリ、
 一式ハ支ヘル事能ワス一方ノ囲トケル処ヨリ逃ケヌ、預メ設ケタル伏兵トリツヽンテ痛ク戦フ、一色ハ中山
 ト云所ニ返シ合セ苦戦シテ死ス。実に九月五日ナリ、家臣藤木太郎左衛門・同三郎五・落合掃部介・同又八
 ・川崎治部・同兵部・同太郎作・滝沢隠岐・谷喜太郎・大河原杢之介・大橋伊織其ノ他ノ井口・大富・山西
 ・村田等一同二戦死ス、其ノ間ニ一色義有ハ一方ヲ撃破テ遁レ、二百五十余兵ニテ宮津ノ西ノ弓木ニ入テ衛
 ル、大嶋対馬守・桜井豊後守・矢野藤一郎・中津海左京・坂井造酒介・沢彦兵衛等モ敗走シテ各自ニ我カ城
 ヲ囲フス、屋形親子直ニ進テ弓木ヲ襲フ、明智ノ家臣溝尾・三宅・中村・進士・並河・四王天等モ均ク城ヲ
 囲ム、戦ヲ挑事二十日余ナリト云へトモ城ヲ守ル事堅固ナリ、此ニ於テ向城ヲ築テ対陣ス、就テ州中ノ属士
 等ノ獲ル所ノ矢野但馬守・内藤一郎カ田辺城、大嶋対馬守・中山杢之亟カ由良城。落合孫三郎・同喜内カ落
 合城、滝山主計・同安左衛門カ瀧山城、吉原又衛門・同左馬入道西雲カ峯山城、一色式部及ヒ濱田カ八称城、
 桜井豊前守・小山隼人カ熊野城、一色宮内少輔・清水次左衛門カ久美城、多賀野清左衛門・一式又左衛門カ
 竹野城等ノ属城モ弓木ノ強ヲ頼テ防キ衛ル、屋形寛仁ニシテ素ト刹ヲ好マズ、是ヲ以テ軍使ヲ桜井豊州ニ馳
 テ曰ク、一色ノ家運モ此ニ至テ尽ヌト知ル、強ヒテ支へラルト云トモ遂ニ豈ニ久カランヤ、我又タ一色家ニ
 於テ遺恨ナシ、只乞フ無事ヲ計ラワレ和融アラハ却テ各ノ忠節トモ成ラント、豊州答曰ク、老臣等ニ胥議シ
 テ此ヨリ謝対セント也、因テ大嶋・矢野・滝山・桜井等会談ス・落合進テ曰ク、屋形ノ仁勇ト忠興主ノ武勇
 トニ対シテ当家ノ中ニ誰アツテカ此ニ当リナン、幸ニシテ彼方ヨリ噯ヲ入ラルヽ事却テ面目タルヘシ、速ニ
 和議アル可シト、已ニ相和シヌ、此ニ於テ明智家ヨリ四王天但州・溝尾庄兵衛ヲ一色及ヒ夫ノ属士ニ馳テ曰
 ク、今マ両家ノ和議吾モ亦大幸トス、然ラハ一色家ヲヨビ属士等偕ニ倶ニ長岡ノ旗下ニ属セラル可シ、其ノ
 盟辞誓詞ヲ筆シテ我カモトマテ呈セラレヨト、遂ニ屋形ハ田辺城ニ主とシテ国主トナル、明智ハ以後一色ノ
 旧臣ノ新主ニ背カン事ヲ慮テ、明智光春・並河掃部ニ兵士三千余ヲ付シテ屋形ヲ援セシム、十月十八日ヲ以
 テ丹後ヲ発シテ丹波ニ帰リヌ、此ノ年大雪常年ヨリ深シ、鬼ケ嶽及ヒ福知山ニ居セル所ノ赤井悪右衛門兄弟
 此ノ便ヲ明智家ヲ襲ント謀レリ、其後屋形ヨリ第三ノ伊也媛ヲ以テ一色義有ニ嫁セシム。                                 義有=一色義定                                               

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