津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■私塾「修道齊」

2019-04-15 18:12:02 | 自分史

 齢を重ねわが人生もそうそう長くはないことを思うと、わが家の歴史に全く興味を持たない子供たちのためにご先祖様の事跡を書き残しておかなければならないと、「自分史」というカテゴリーを設けて駄文を書き残すことにした。
これは人様にお見せすべきことではないのかもしれないが、ご容赦いただきたい。

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 もうずいぶん訪ねていないが、私の本籍地城山下代には曾祖父の顕彰碑が立っている。
                     
維新後の混乱が落ち着いた明治十二年、曾祖父・又太郎はこの場所にささやかな「修道齊」という漢学の私塾を開いている。明治廿年まで続いたらしい。
また現存するかどうかも承知していないが、この地区の鎮守のお宮(下代菅原神社?)を建立したらしい。
そんなことがあって、塾生や地元の人たちが建立されたものであろう。恥ずかしながら碑文にどのようなことが描かれているかも承知しない。拓本を取りたいと思うが大きな碑文であり、どうしたものかと思案している。
明治十六年に隠居し、十二歳の祖父が家督しているが、しかし隠居をしたといっても祖父を頭に三男一女がある。
また昭和22年廃止になるまでの「家制度」の中であり、いろいろな重責を担っていたのであろう。
経済的には曾祖父が私塾の経営をもってこれらを育てたという事になる。
細川護美公(韶邦・護久弟)に近侍していたこともあり、維新後護美公から京都へ出ての就職の斡旋があったと聞くが、何故かこれを辞退している。
慶応三年に上田久兵衛の長女・晩稲と結婚しているが、久兵衛からは「藤婿」(姓がS藤であるが故)とよばれ可愛がられている。
又太郎は時習館に学び居寮生にも選抜されているから舅殿のお眼鏡にかなったのだろうか。
明治十年の西郷の熊本進軍の際、過去に川尻奉行を勤めた久兵衛は、川尻住民から請われていわゆる「川尻鎮撫隊」を結成してして住民の安寧に努力した。しかしこのことが西郷に与したという疑いとなり刑死に至るという皮肉な結果となった。曾祖父も行動を共にしたと思われるが詳細は知りえない。
明治三十年三月には旧藩関係者からの要請でもあったのか、横井小楠も関わっている江戸留守居役・吉田平之助暗殺事件後の子息による仇討ち事件に関する「吉田傳太復仇一件聞取書」を書きあげている。これは当時曾祖父が穿鑿役を勤めていたことによるものであり、又太郎の死(明治三十七年一月)の七年まえのことである。
横井小楠が現場を離れて藩邸まで刀を取りに行った有様なども記されている。誠に不名誉な話だが、小楠を語る人たちはこの文書は避けて通るようだ。

長男である祖父は長じて平壌に赴き「朝鮮語学校」の校長を務めたりしているが、研究者の論考などを読むと「国士」だとされている。
「東亜同文会」との関りが深いように思えるが、やはり細川家との関りが匂うし、のちには細川家の家政所に家扶として勤めた。

                        


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■鎮魂の日

2019-04-15 08:28:22 | 新聞

 現在私が住んでいるAPは、地震直後に「仮の住まい」として慌てて引っ越したものだが、いわゆる「みなし仮設住宅」という取り扱いをうけた。
いまだ地震の避難民という訳だが、三年経過してその措置が期限となる。つまり家を建てるなり、借家を借りるなり自立しろという訳である。
ことばは優しいが役所は「さあ、どうする」と言わんばかりに、「今後」をどうするかを聞いてくる。
買い物や交通の便そのほか便利ですっかり馴染んでしまい、77×75の爺バアにとっては「もう引っ越しは勘弁・・」というのが正直な気持ちで、ここを「終の棲家」とすることに決めた。
「終活」を考えばならない年齢だが、いまだ資料や書籍類は増えるばかりだし、収納のためにあと一部屋ほしいところだが贅沢は言えぬ。

4月14日21時26分と16日01時25分、わずか28時間の間に二度の壊滅的被害をうけた方々でいまだ将来の展望が見えないまま、日々を過ごしておられる方々が多くある。
皆さんがそれぞれの苦難を乗り越えて、無言の努力をされている。そんな方々の事を思うと、私共のごときはいうべき言葉を失う。
平成の御代は必ずしも「平らかに成る」とはいかなかった。「令しく(うるわしく)平和」を望む新しい御代は、まさにそのような時代であってほしいと願うばかりである。
まだまだ長い道のりながら、熊本城はその雄姿を取り戻しつつある。

熊本は鎮魂の催しが各地で行われる。犠牲者に哀悼の意を表し、残された方々のご多幸をお祈り申し上げるばかりである。

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