昨日のご紹介に続き・・・
三齋の八代隠居領において家老職を勤めた長岡河内(村上縫殿介・10,000石)は、三齋の死去後は離国することになるが、これはまさしく藩主・光尚の意を呈しての「雇止め」によるものであろう。
御請
一妙解院御代ニ私参上申間敷と申上候儀、 公儀
御奉行衆も御存候ニ、今更熊本江被 召出候儀も
不被為成被 思召候、又私参上仕儀も不成儀ニ御
座候由 御諚御尤ニ奉存候事
一妙解院様御代ニ私参上不仕わけ色々御座候得共、
事永ク御座候間、有増申上候、 三齋様私ニ御懇ニ御
座候故、小倉ゟ中津江御隠居之刻、せめての御奉公ニ
御隠居之御供仕、御一世者御奉公仕度奉存候、御
手せばニ被為成候間、縦御そうり取御一人之御仕合ニ御
座候共、其御さうり取を仕可申覚悟ニ御座候由申上、御
供不仕申候間、 妙解院様江不参不仕候事
一御合力可被 仰付候条、御國之内何方ニも罷居、宮松殿
御見舞申候様ニと 御諚之通忝奉存候、如何様共
御諚次第ニ可仕儀ニ御座候得共、御奉公も不仕候ニ御恩を
いたゝき申候儀、如何ニ奉存候間、御暇被下候者忝可奉
存候、此等之旨宜被仰上可被下候、以上
七月廿日 長岡河内守 花押・印
長岡勘解由殿
丹羽亀丞殿
この書状は長岡河内が、「妙解院(忠利)に仕えた者ではないから再任用はしない」という「雇止め」の理由に対し了解の意を表している。
「御請」とあるからこの「雇止め」の処分を受け入れるとの意か。
何故妙解院に仕えず三齋公に仕えたかを説明するとともに、合力米をもって肥後国内にとどまり宮松(宇土細川藩初代藩主)を「御見舞」するようにとの意向もやんわり断っている。
大坂の役での「高名」があったとはいえ、10,000石のいう禄を得たことは三齋の意向とはいえ、忠利の意には添わなかったのであろう。
「妙解院(忠利)に仕えなかった」とはそのような機会があり、河内が拒否をしたとでもいうのだろうか、資料を知りえない。
のちに松井興長をして八代城主とする光尚の考えは、事前に興長に打診がないまま実行された。
そのようにこの河内の処分なども光尚の深謀であったことが伺える。
三齋の没後、丹羽亀丞をして八代御附衆の動向を隠密裏に調べさせている。河内にかかわる史料も多く散見されるが、この「雇止め」の決定がどの段階で行われたのか非常に興味深い。
かってご紹介した、「丹羽亀之允言上之覚」「松江城秘録」などに詳しい。