津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■上田久兵衛と渋沢栄一

2019-04-11 08:43:00 | 書籍・読書

                        

 新しい時代の新一万円札に渋沢栄一が採用されることになり、関連する書籍が大いに売れているらしい。
この城山三郎の「勇気堂々」も品不足状態らしい。
わたしは初版本を購入して読んだことを覚えているが、これまた段ボールの中に疎開しているらしく見つけ出せないでいる。
実は高祖父・上田久兵衛がいささか渋沢栄一とかかわっている。久兵衛は一橋慶喜と何度か面会しているが、渋沢は慶喜に仕えていた人である。
(安藤優一郎に「渋沢栄一と徳川慶喜」という著作もある)
「幕末京都の政局と朝廷ー肥後藩京都留守居役の書状・日記から見たー」によると、二人の交流は10数度日記や書状の中にその名前が見える。
渋沢を介して久兵衛は慶喜にいろいろ建言していることが判る。

久兵衛の刑死後渋沢は上田家に弔問の書を送っているらしい。又遺児は職を得ようとでも思ったのか渋沢家を訪ねたりしている。
大叔父の言によると上田家は経済的にも困窮し、女婿である曾祖父はその援助に勤め「その後の我家の困窮の原因もそこにある」としていた。
久兵衛の日記や書に触れるとともに、この度の渋沢栄一の朗報に接すると、いささか感慨深いものを覚える。

付足し:1,000円札に登場する「北里柴三郎」は熊本県小国の人である。若い人たちは名前も知らない人が居るらしいが、まさしく郷土の偉人である。地元小国のみならず、熊本県民が湧いている。ちなみに現在の小国町長は、縁戚筋にあたるという北里耕亮氏である。

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■魚住右衛門兵衛宛 黒田如水感状

2019-04-11 06:15:04 | 史料

              

 今週土曜日の熊本史談会例会においては、堀内傳右衛門の「旦夕覚書」を取り上げることにして、唯今勉強の真っ最中である。

その中に、西の関ヶ原戦ともいわれる「石垣原戦」に於いて大活躍をした魚住右衛門大夫に対して、黒田如水が感状を与えたことが特に取り上げられている。
実は以前ご子孫からいろいろな古文書のコピーを頂戴した。その中にその感状の写真があったことを思い出してここにご紹介してみた。
写真のコピーを頂戴しているが、これは再コピーをスキャンしたもので不鮮明なところはお許しいただきたい。

                          一昨日御働手柄
                          之段松佐州有四郎右
                          御物語(に)候於我等被満
                          足不過候今日爰
                          元相済候て明日其地へ
                          参面上以萬々可
                          申入候恐々謹言
                                如水軒                
                           九月十五日  花押

                             魚住右衛門兵衛殿

 先祖附を見ると右衛門兵衛は元々は三百石であったが、御敵・大友義統の家士の首をとった功により、後千七百石の加増を為され二千石を拝領するとともに、加賀と名乗りを替えている。
これはこの感状にうかがえる様に、如水はこの働きぶりを高く評価しており、忠興公に対し二千石で召し抱えたいから譲ってほしいと申し入れている。
当然忠興は断っているが、右衛門兵衛への加増の高は、如水の一言が伏線になっていると思われる。

細川家家臣にはこの右衛門兵衛(加賀)を祖とする三家(武兵衛家・勝門助家・太郎家)と、魚住市正を祖とする二家がある。又助左衛門家があるが、こちらも右衛門兵衛の流れではないかと考えるが確証がない。加賀流と市正流の接点は現況見出されていない。
ちなみに肥後勤王党の中心人物・魚住源次兵衛は太郎家の9代目である。

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