津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■沢村大学憎しみの人三齋公

2019-04-30 13:14:26 | 歴史

 先年熊本大学付属図書館に寄託されている永青文庫所蔵の「沢村大学起請文」が公開された。
ここに記されている内容は驚くべきものが記されていた。それは三齋公に対する憎しみにも似た大学の心情を吐露し、その上で光尚に起請文として呈しているのである。光尚はどう思ったのであろうか。
逸見駿河守昌経の重臣として仕えた大学が、逸見家没落後忠興の臣・西川与助に足軽としてつかえ、度々の武功により立身した。
これはまさに三齋忠興によってである。
その三齋にたいする憎しみとも思える大学の心情が醸成された原因は何処にあるのだろうか。
資料から垣間見てみたいと思う。

 沢村大学・吉里(初・才八)  
        (1)三千石 頭衆 丹後 若州 (於豊前小倉御侍帳)
        (2)三千石 大学助  (肥後御入国宿割帳)
        (3)            (真源院様御代御侍名附)
        (4)五千石       (真源院様御代御侍免撫帳)
         
     生国若狭国高濱、逸見駿河守昌経()に仕、天正十年八月細川忠興臣西川与助足軽数度合戦に武功、豊前三千石、
     備頭 大阪陣後千石加増 寛永二年御暇寛永三年九月帰参三百人扶持 肥後入国後五千石 光尚傳 城代 慶安三年
     九月十七日歿・九十一歳(肥後藩・主要系図から作成)

     桃井の族ニて若州之産也、若年之時逸見駿河守に仕へ候ニ、駿河守病死(中略)断絶丹後ニ越、御鉄砲之者ニ被召出
     (中略)追々武功ニよりて天正十八年奥州より御帰陳後知行百石被下、朝鮮御帰朝後百石御加増、慶長六年七月千石、
     同十月弐千石、又寛永九年五百石被下候、同十年当御国ニ而被改五千石被下、御城代被仰付候 (綿考輯録・巻九)
      

    ■寛永元年四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたという。大学には係わり合いのない事の
     ようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。
                          沢村大学牢人被仰付置候内道家左近右衛門方迄之状壱包(永青文庫)

    ■寛永二年八月十八日 忠利書状
         沢村大学事松平宮内殿御詫言ニ付召返候、左候は松井宇右衛門ニ遣候家大学ニ可渡候(略)(綿考輯録・巻三十)
                                            
    ■寛永二年九月四日  沢村大学帰参被仰付被差下候ニ付而  忠利書状
         沢村大学其方へ差下候扶持方百人扶持、参着より可遣候          (綿考輯録・巻三十)
        
    ■寛永十年七月(年未詳とされる文書から)
         三齋、沢村大学の中路周防女から50石を借米(慶長20年・利息年四割)当時の残高は29,880石余の内の三年分
         137石2斗の返却を即す                   (大日本近世史料「細川家史料七」1813)
                     書状原文  同左釈文
       参考:複利計算してみると50石を年利4割で29,880石余になるには19年が経過していることが判る(29,882石)        
        
    ■寛永十二年六月廿三日 沢村大学へ被下候御書之内
         其方事毎日城廻、其上雨風之時も見廻候由聞届候、年寄候而ハ万事違物にて候間、左様之心遣仕間敷候、煩不申様
         ニ心得可申候、謹言
           尚々、其方いきて居候得ハ奉公にて候間、其心得可申候、以上    (綿孝輯録・巻三十六)

    ■寛永十五年・原城にて武功
         光利君に近侍して老功を示し益多き事を被感、片山自庵を以御褒詞有、其後忠利君より御指料名誉国俊の御刀を被下、
         倅宇右衛門儀も今度手筈ニ合申候、自然の時手ニ合候ハゝ一廉御取立御先手をも可被仰付と内々被思召候処、今度御
         意を不受御先ニ参候ハ不届之仕形ニ被思召候、乍去先ッ一倍の御加増三千石被下候、後々ハ今の分にてハ被召置まし
         き由御意被成候、光利君よりハ朝倉ぎんだりと云脇差を被下候、是ハ越前国朝倉義景の重物にて、茶臼を斬破しより
         ぎんたりと名付候となり                           (綿考集録・巻五十)

    ■寛永二十年(1643)正月十日ころ、光尚は八代に三齋を見舞っている。
     亡くなる三年ほど前の事だが、綿孝輯録(忠興・下 p305)に「此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御
     目見被仰付候」とある。どうやら三齋の方から「被召連候様」にとの事であったらしい。


    ■寛永二十年正月十一日
         光尚公に対し「起請文」を呈す (読み下し文は後日取り上げます)

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■平成の大晦日に想うこと

2019-04-30 07:34:29 | 徒然

 今日で平成も終わりという思いがあるからかもしれないが、朝の散歩に出てみると町は静かで車も少なく人通りも見受けられず、まさに年の瀬の雰囲気そのままである。
日章旗を掲げておられるお宅もあった。
松飾りこそないがまさに平成の大晦日といった町の風情である。小ぬか雨が降っていて、空気さえ浄化されているように感じられる。
両陛下のご退位を感謝をもってお送りし、明日は新天皇の誕生に歓びにあふれたはじけるような祝意が全国津々浦々に満ち溢れる事であろう。
今日の散歩は早足をやめてゆっくり歩こうと考え、静かに歩を進めながら平成の御代最後の日の感慨に浸った。
これで昭和・平成・令和三代を生きることになるが、「昭和も遠くなりにけり」の感を深くする。
最近「自分史」をしたためていると、その思いが心を揺さぶり、しばしタイピングの手を止めてしまうことさえある。
「老いた」ことを実感させられる昨今だが、「令和」がどのような時代に生まれ変わるのかを一日も長く見てやろうという欲も出てくる。
私の晩年は、このサイトを運営することで大いに勇気つけられた。沢山の皆様にサイトを訪問いただけたことは、望外の幸せであり生きる力になっている。
平成の大晦日、まさに感謝の思いを深くしている。

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