津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■二つの侍帳

2019-04-07 09:41:14 | 史料

                          

  左の刊本は熊本の出版社・(株)青潮社発刊の「肥後細川家分限帳」だが、底本は中島亀友氏所有の「旧藩 御家中知行附」で明治十八年二月十八日写)だとされる。
右は旧藩士・高田家所蔵の「大正十三年二月謹寫 肥後旧藩士録名籍」だが、底本は判っていない。
知行取については御覧の通り内容はほとんど一緒だが、後者においては加えて「寸志」「御扶持方」などが記されており貴重である。
又、先祖武功により「御鏡餅頂戴之家(△印)が紹介されている。又、〇印が附されているものがあり、これ以外は「一代御中小姓」だとしている。
御中小姓は世禄ではなくまさしく「一代御中小姓」は原則一代限りなのだが、よほどのことがない限り継続家督している。
由緒ある家では「代々御中小姓」という家柄もある。武家の格付けの複雑さがうかがい知れる。

後者は高田家が所有されるものをお預かりしたのだが、破れがひどくその残決を見つけて旧に復したのだが、その際役に立ったのが「肥後細川家分限帳」である。
御覧の通り状態が非常に悪く、紙はしわくちゃではあるが何とか体裁を整えてお返しした。その過程でコピーを取って控とさせていただいた。
「侍帳」としては一番時代が新しい写本だと思われるが、まだこのような史料が存在していて、まだまだ旧家にはいろいろ残されているのではないかと思われる。
ご教示たまわれば幸いである。

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■永源師檀紀年録・巻之四(14)

2019-04-07 07:21:40 | 史料

 天正 
〇同七年正月屋形父子安土ニ赴ク、織田家ハ屋形格冬ノ大功ヲ賞シて丹後闔国ヲ封シ与フ。復曰ク、一色義有
 我意ヲ逞シテ一方ニ独処ス、甚タ不敬ナリ、屋形帰国ノ時速ニ此ヲ誅伐ス可シト、屋形反復シテ彼カ宥恕ヲ     信長、一色義有の誅伐を命

 説クニ聴カズシテ曰ク、反覆常ナラサル地ナリ、此ヲ誅セン事ハ永ク長岡家ノ為ナリト云テ其ノ命懇々ナリ、
 因テ領掌ス、又曰ク、青龍寺ハ明智ニ授クヘシト、敬諾進テ。明智光秀ヲ辟シテ織田家ノ曰ク、汝多年功労
 ヲ積ム、殊ニ去冬丹波ヲ征伐スル、計策等偏ニ我家ノ孫子ナリ。今マ丹後ヲ以テ長岡ニ封ス、以来青龍寺城
 及ヒ桑田・舟井ニ丹波一等ニ汝此ヲ領ス可シト、又曰ク、汝カ娘ヲ以テ此ヨリ先キ忠興ニ嫁セン事ヲ謀ス、
 以来我レ此ノ事ヲ黙シヌル事ハ、藤孝父子功勲ヲ積ムヲ佇テテ以テ一国司ニ封シテ後チ此ヲ謂ント欲ルカ為
 ナリ、定テ忠興ヱ嫁セシナラント、明智家敬テ謝答シテ曰ク、向キニ尊命ヲ蒙テ速ニ嫁セント欲スル処ニ、
 長谷川竹ヲシテ尊命ヲ仰テ曰ク、暫ク遅延セシム可シト、仍テ今ニ至テ命ヲ待ツノミト、安土家重テ曰ク、
 来月中ニ嫁娶ス可ト両家ニ命ス、欽テ諾シテ二月廿六日ヲ以テ田辺ヱ入輿ス、寔ニ天正七年也。          信長命にて明智珠、忠興に嫁ぐ。
〇同年二月十九日ヲ以テ明智家ヨリ三宅藤兵衛ヲ青龍寺ニ居ク、同月下旬安土家ヨリ書ヲ明智家ニ馳テ曰ク、
 藤孝ヲ伴テ速ニ安土ニ至ㇾト、忠興ハ来レルニ及ハズトナン、屋形ハ三月二日ヲ以テ亀山ニ至リ、明智家ト
 倶ニ同月五日ニ於テ安土城ニ登ル、織田家ノ曰ク、吾レ曽テ藤孝ヲシテ細川ノ旧称ニ復セシメン事ヲ説ク、
 然モ其ノ所以アリツヤ強テ辞ス、領主ノ任ニ在ル時ハ辞スルモ一理アリ、今已ニ国司トシテ何ノノ恥チ憚ル
 事カ有ラン、是ヲ以テ宜ク細川ニ服ス可ト、屋形敬諾ス此ノ時忠興主ハ不復改之也 翌六日再登城シテ礼謝ス、此日
 安土家ハ八幡ノ貞安ヲ請シテ法談ヲ聞ク、談了テ貞安退城ス、安土家屋形ヲ辟シテ曰ク、吾レ近日々蓮ノ僧
 徒ヲ洛ヨリ招テ浄土宗日蓮宗ヲシテ論儀セシメ以テ優劣ヲ試ント欲スト、屋形答曰ク、臣カ愚意ヲ要スルカ
 故ニ敬白セン、今撓季ニ逮テ豈ニ法然・日蓮如キ高僧アランヤ、然ラハ其ノ宗ノ奥旨ヲ解セシ億旨解セズン
 ハ何ヲ以カ優劣ヲ決断セントヤ言訖テ退出ス。近年安土家ハ祖先ヨリ帰崇スル
  所ノ宗旨ヲ捨テヽ日蓮宗ヲ崇信ス、是ヲ以諸方ノ名勝神社佛閣ヲ悉破却ス故ニ、光秀是ヲ謀テ為
  サシムナリ屋形ハ明智家ニ謂テ曰ク、織田家ハ日宗ニ帰依スルカ故ニ諸ノ悪逆此ヨリ起リテ日ニ増長ス、翁ハ

 此ノ志ヲ織田家ニ翻へサセシメんト欲シテ思惟シテ尋常心頭ヲ砕ク、此レ不可ナルニハ非ス、雖然翁ノ為ニ
 一言ヲ謂ン、大凡ソ衆ニ抽テタル者ハ讒ノ為ニ阨ラル、林ニ秀タル木ハ風ノタメニ折ラル、翁夫レ熟ク計レ
 ト、明智家曰ク、深ク肝ニ命セント謝礼ス、明智家ハ此ノ忠心ヲ懐テヨリ却テ織田家ノ意ニ陿ワズ、屋形ハ
 時服ヲ織田家ニ授カリテ四月末莢ヲ以テ国ニ帰ル、以後安土家ハ明知家ヲ辟シテ曰ク、我レ向ニ藤孝ヲシテ
 義有ヲ誅セシメン事ヲ謂フ、然モ未タ誅セズ怠タレリ、思フニ藤孝ハ仁恵フカキユヘサモアリナン、忠興ヲ
 シテ此ヲ計ラワス可シト也、仍テ明智家ヨリ密ニ此ノ事ヲ屋形ニ告ク、此歳忠興主ヨリ義有ヲ招テ饗シ、遂      信長、義有誅伐を促し、忠興決行す
 ニ謀テ手親ラ此ヲ斬ルヲ忠興主ハ刀座ノ側ニ閣キ故サラニ義有ヲシテ此ヲ■セシメテ斬レリト就テ令妹伊也媛ヲシテ屋形ニ還ラシム、却後
 此ノ媛ヲシテ吉田兼治卿ノ簾中ト為ス、此ニ依テ一色ノ旧臣等一旦新主ヱ属スト言へトモ今マ黨ヲ樹テヽ叛      伊也姫、吉田兼治に再嫁す
 ス。安土家ヨリ屋形父子三員ヲシテ他国ノ繇ヲ止メテ以テ当国ヲ伐タシム、一色満範此ノ国ニ封セラレテヨ
 リ以還タ七世也、今ノ代ニ至テ屋形ノ為ニ其ノ家ヲ廃セラル、屋形父子ハ峯山ヲ征伐ス、城陥テ吉原等自殺
 ス、高屋ヲ征シテ忠興主奮撃シテ自ラ此ヲ斬ル、此ヨリ州中ノ属士矢野・大嶋・桜井・滝川等カ城、或ハ降
 シ或ハ陥ル事二十五也、安土家ヨリ感賞書授フ。

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