天正
〇同八年正月下旬ニ至テ、丹後州中ノ一揆等悉ク誅伐シテ治リヌ。此ヲ以テ安土家ヨリ書ヲ屋形及ヒ明智家ニ
授テ彼ノ属士ノ領地スル所ヲ検校セシム、屋形ヨリ新城ヲ宮津ニ築ク、就テ忠興主及ヒ屋形ノ家臣等ニ菜地
ヲ割キ与ヘル事差アリ、以テ多年ノ功労ヲ賞ス。茲年三月十八日ヲ以テ安土家ヨリ屋形ヲシテ従四位下ニ任
シ侍従ヲ行セシム、其ノ他ノ城之介殿・蒲生・北畠・徳川・明智等ノ十一人一同二官楷ニ叙セシム。
〇同年四月忠興主長子ヲ生ム、千丸殿ト小字ス、後元服シテ忠隆ト称ス。
〇同年六月屋形ハ安土家ノ命ヲ承テ、秀吉ニ授シテ共ニ但州ノ山名昭豊ヲ征伐シテ功アリ、其ノ先キ時熙ハ明
徳中ニ於テ此ノ州ノ牧トナリテヨリ、昭豊ニ至テ已ニ七代凡ソ二百廿年強相続ス、今マ此ニ逮テ其ノ家滅亡
シヌ。 すぐれ ママ
〇同九年六月安土家ヨリ屋形ヱ下知シテ曰ク、儻シ秀吉カ取鳥ノ軍危キ時ハ此ヲ後援ス可シト、仍テ屋形其ノ
兵士ヲ聚ム、九月忠興主水師ヲ伯州ニ出シテ功アリ、安土家賞帖ヲ授ク。十月屋形ノ家臣松井康之ヲシテ水
師ヲ取鳥ニ出サシメテ秀吉ヲ援ク、城陥ル、松井最モ功アリ、檄ヲ飛ス、安土家感賞帖ヲ授ク。忠興主進テ
軍ヲ因伯ノ地ニ張テ、河口刑部少輔久氏カ泊城、及ヒ田口備前守カ持ツ所ノ大崎城辺ニ放火シテ敵船ヲ掠メ
取ル、松井モ亦タ戦ヲ彼シコ二再ヒシテ功績アリ、忠興主檄ヲ織田家ニ馳スル事両回共ニ賞帖ヲ授ク。此時
但州ノ残黨等復タ峰起ス、是ヲ以テ秀吉ヨリ但州ノ一揆ヲ破ラン事ヲ屋形ニ憑ム故ニ、因州ノ征伐ヲ止テ但
州ヲ征伐ス、忠興主ハ若州ノ堺及ヒ領地ヲ巡見ス、年ヲ宮津ニ踰フ、屋形ハ田辺ニ在ス。
〇同十年正月七日諸将年賀トシテ安土ニ赴ク、安土家軍事ヲ明智家ヱ議セラルヽ事数刻ニシテ又タ屋形及ヒ蒲
生・宮部・青地ノ四將ヲ辟シテ別席ニ於テ曰ク、来ル二月下旬ニ甲州ヲ征伐セン、然ラハ各ハ留主ヲ安土ニ
居ラルヘシ、然シ自余ノ国主等従軍ノ人ハ其ノ兵各三カ二ヲ国に残シ居ラシメヨ、其他ノ諸侯モ各ノ国ニ止
リ守ル可シ、我唯尾・濃・三・遠及ヒ切鄰六州ノ兵ヲ率テ彼ニ到ラン、蒲生秀行モ従軍スヘシ、又屋形ニ謂
テ曰ク、息ノ忠興ハ弥領国ニ止リ守ル可シ、此レ丹波・丹後・但・因・若州ノ大軍ニ備ンガ為メナリト、此
ノ三月武田負績ス、同四月安土家凱陣也。茲歳忠興主第二女ヲ妾腹ニ生ム、古保ト名ケラル、妾ハ郡主馬宗
保ノ娘也。
熊本城之図である。グリーンで囲ってあるのが本丸御殿、天守は左上に見え下が大天守、上が小天守である。
新しく肥後国を拝領した忠利は、寛永九年十二月九日に熊本城に入城した。父・三齋は二十日八代から熊本城に登城している。
忠利が大手門まで出迎え、祝いの宴席は松之御間(赤い囲み部分)に設けられた。
志水伯耆に「四海波」を謡わせ、伯耆が声が立たなくなると、席に参加した人々に一緒に謡わせ始終ご機嫌だったらしい。
その日のうちに熊本を離れたが、天気が悪く帰りには川尻の「お茶屋」に宿泊した。
そしてここから忠利に対して書状を発しているが、祝いの席でお小言めいた発言を控えたのであろう。
昨日申度候つれとも初而参候間無其儀候
今日天気悪敷候而川尻に逗留申内に越中
所より歩之者参候間幸と令申候仍檜垣の
女石塔肥後守居間の庭に居て御入候此女
は三代集之内にも入無隠儀に候左候得者
國之古跡にて候に此墓の石塔取候事も有
間敷儀に候殊に主城の庭に石塔居候事も
氣違の一ツの内たるべきと存候其上少も
見事に無之候萬事肥後被仕様悪事を仕り
可直儀に候條當年中ニに是を被取除昔の
所へ遣むかしに不替様被立置可然と存候
各御分別候而能時分越中に可被仰聞候哉
以上
十二月廿一日 三齋
(有吉)四郎右衛門殿
(松野)道 孝 殿
(山田)竺 印
(波多)中 庵
参る
上の配置図をよくよくながめてみると、松之御間や御居間やまた九曜の間に囲まれた中庭〇印の部分にそれらしいものが書き込まれている。
これが檜垣の塔ではなかろうか。加藤忠廣がこの庭に持ち込んだと考えられるが、三齋は厳しく批判している。
そして残り少ない年の瀬の中、「当年中」に元の場所(蓮台寺)に返却するよう指示している。
檜垣なる老女の存在を十分理解したうえでの発言であり、家中の人たちも屋敷を割り当てられ引越しに忙しい時期であったかもしれない。
しかしながら、そのあたりも十分配慮しながらの指示であろうことを思わなければならない。
このような記述を見ながら、城内の絵図をながめて当時に思いをはせると、まるで映画かテレビのシーンを見る思いがする。