津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「君」という姓(カバネ)

2019-06-11 13:30:04 | 徒然

 私の本籍地は熊本市の西方、曾祖父が塾を開いていた城山下代町だが、この地域を挟むように北を坪井川、南を白川が流れている。
その坪井川は独鈷山を挟むように流れてきた井芹川が合流して、井芹川はここが終点になっている。

その合流点に高橋東神社(天神)があり、井芹川をはさんだ対岸には高橋西神社(若宮)がある。(地図)
その高橋東神社の御祭神は「道君首名」(みちのきみおびとな)である。筑後と肥後の国司を務めた人物として、熊本でもよく知られる(?)名前である。
高橋は藩政時代は五ケ町の一つであり港町として賑わった。ここから坪井川をさかのぼり色々な物資が城下にもたらされた。

 本籍地としては地元ではあるが、私はこの神社の事は詳しくない。
最近この「君」という「姓=カバネ」が気になっている。「首名」は国司だから・官位は正五位下・筑後守である。

さて万葉人の山上憶良は従五位下・筑前守だが大宰府に大宰帥として任官している。
その憶良が、なぜか熊本人・益城出身の大伴君熊凝という一青年の死をいたみ万葉集に六首にも及ぶ歌を残した。
   参考:憶良熊凝哀悼歌の特質 斌(ここから左記論考のPDFを開いてご覧ください)

熊凝は大伴「君」という「姓」を持っているから、地元では豪族の部類の人物ではなかったのかといわれる。「相撲使」のお供をして安芸国で亡くなっている。

同じ「姓」ながら、此の身分の差は何なのだろうと思ってしまう。
ウイキペディアの「氏姓制度」を見ると次のような記述がある。
    「8~9世紀において改賜姓がさかんに行われているのは、八色の姓において、上級の氏姓にもれた下級の身分の者や、これらの農民
     を主な対象としたものである。その順位は、無姓を下級とし、造、、史、勝、村主、拘登(ひと)、連と身分が上がっていく。
     これは、天武朝において氏上に相当する氏が八色の姓に改姓する前段階として、まず連への改姓が行われ、この連=小錦位以上を
     基点として、忌寸以上の4つの姓へ改められたことと同様の対応である。」

熊凝の「君=公」は下位から二番目であることが判るが、道君首名のような高官(正五位下・筑後守)の「姓」が同じとは理解に苦しむ所である。

ぼんくら爺様は頭が痛くなる。お詳しい方はお教えを給わりたい。


コメント
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