津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■益城の人・大友君熊凝の死を悼んでの麻田陽春の二首、山上憶良の六首

2019-06-15 14:36:15 | 歴史

 今日の史談会では熊本・益城の万葉人・大伴君熊凝(おおとものきみ・くまこり)について会員のN氏からご紹介いただいた。
            
                        高庭駅家跡と濃唹駅跡 写真  
                 高庭駅家跡と濃唹駅跡 はつかいち観光協会・大野支部のサイトから引用

      

                      広島県廿日市市
大伴君熊凝は、相撲使いの供をしての旅の途中、安芸の高庭で病に伏し十八歳で亡くなっている。

                                        あさだのやす 
その無念の死を悼み、大典職の麻田陽春が二首を詠っている。この話をきいた山上憶良もこれをうける形で六首の歌を詠っている。
この若人の死が、万葉歌人にどう伝えられ受け止められたのだろうか?。熊凝はこれらの人と親しく接したことが有ったのだろうか。
この辺りは詳細を知りえないが、熊凝は死して万葉集にその名を残す結果となった。
N氏の解説によると、益城とは現在の益城町ではなく当時の益城郡(こおり)の国府は現在の城南町であったらしい。
城南町には塚原古墳や貝塚なども多くみられる土地柄であり、隈庄がその中心であったのだろう。
氏のお話によると地元の方々も全然ご存じないようである。また熊凝については純粋の熊本人ではなかった様である。(少々残念)

 (以下にご紹介する現代語訳はサイト「万葉集入門」を引用させていただいた。感謝)

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■大典麻田陽春が詠った二首         (大典→律令制で、大宰府の主典(さかん)で少典の上に位するもの。)

                                                   ながて                ことどひ
 ・巻五(八八四)  国遠き道の長手をおほほしく今日や過ぎなむ言問もなく

              故郷から遠い長い道中に心もいぶせく今日死んでしまうのだろうか、父母に別れを言うこともなく

                けやす     ひとくに               ほ
 ・巻五(八八五)朝霧の消易きあが身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り

           朝霧のように消えやすいわが身ではあるけれどこんな他国では死にきれないよ。親に一目逢いたくて

山上憶良が詠った六首

                                            のぼ                                                                         おくか おもえやま         いつ     みやこ
 ・巻五(八八六) うち日さす 宮へ上ると たらちしや母が手離れ 常知らぬ国の奥処を百重山 越えて過ぎ行き 何時しかも京師を見むと思ひつつ
                おの   いたは    たまほこ   くまみ   たお          とこ      こ
                          語らひ居れど 己が身し労しければ玉鉾の道の隈廻に 草手折り柴取り敷きて床じものうち臥い伏して思ひつつ嘆き伏せらく 
                                 よのなか                 ふ
           国に在らば父とり見まし 家に在らば母とり見まし 世間はかくのみならし犬じもの 道に臥してや命過ぎなむ
                                                                                                                                      (一ニ云はく わが世過ぎなむ

                      垂乳根
             日の輝く朝廷へ上がるとて、たらちねの母の手元を離れ、普段は知らない他国の奥深い幾つもの山を越えすぎて行き、何時になっ
                            たら奈良の都を見れるかと思いながら 仲間と語らっていたけれど、わが身が苦しいので鉾を立てる道の片隅に、草を手折りて柴を
                            取り敷き、それを借りの床にして横たえ伏しては、思い嘆いて思うことには、故郷に居たなら父が手を取って見てくれただろう、
                            家にいたなら母が手を取ってみてくれただろう、世の中はこのようなものであるらしい、犬のように道に倒れて死んでゆくのだろ
                            うか〔一に云はく、わが命は過ぎるのだろうか〕


                                                         おほほ   いづち    あ
 ・巻五(八八七) たらちしの母が見ずして鬱しく 何方向きて吾が別るらむ  

         (故郷に居る)母に逢うこともなく心落ち込んで どこへ向かって私は別れ去るのだろう 

 
                         いか        かりて             かれひ       
 ・巻五(八八八) 常知らぬ道の長手をくれくれと 如何にか行かむ糧は無しに(一ニ云はく 乾飯は無しに

          いつもとは違う長い道のりを暗闇の中にどのようにして行こう。食べる物さえないのに〔一は云はく、乾飯もないのに〕

 ・巻五(八八九) 家に在りて母がとり見ば慰むる 心はあらまし死なば死ぬとも(一ニ云はく 後は死ぬとも

          家にいて母がみとってくれるのなら慰められもするのに。たとえ死んだとしても〔一は云はく、後は死ぬとしても〕
                  
                     けふけふ      あ        
 ・巻五(八九〇) 出でて行きし日を数へつつ今日今日と 吾を待たすらむ父母らはも(一ニ云はく 母が悲しき

          私の出て行った後の日を数えながら今日か今日かと私の帰りを待っているだろう父母よ〔一は云はく、母の悲しさよ〕 

             ふたたび                                                   あ       
 ・巻五(八九一) 一世には二編見えぬ父母を 置きてや長く吾が別れなむ(一ニ云はく あひ別れなむ

          一度限りのこの世では二度と逢うことの出来ない父や母を置いて私は永遠に別れてしまうのだろうか
                                                                                                                  〔一は云はく、お互いに別れ別れになってしまうのだろうか〕

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■元和九年・覚書(七月十九日~七月廿三日)

2019-06-15 06:31:05 | 細川小倉藩

         |      七月十九日 晴天         
         |           (遣カ)                                                                      さつまえ 
明寰薩摩ニ遣スニ | 一、明寰弟、薩摩へ召着候ニ付、御年寄衆御談合アリ、畢竟明寰ヲ長崎へ御小早ニて、御歩之衆壱人
家老等談合    |   相添被遣、埒明候て、罷戻り候へとの儀也
         |
         |  御船頭
         | 一、東善兵衛、籠ゟ出し申候事
         |  
         | 一、舟瀬六郎左衛門儀は、御書之趣御覧候て、重而御談合有へき由候て、不相済候也
         |
入籠中ノ庄屋ニ給 | 一、しい村之惣右衛門ニ、水くれ申候事
水        |                    水さえも容易に飲めなかったことが判る。この人物は後日磔の刑に処せられることになる。
         |
         |      七月廿日 晴天
         |
         | 一、明日、手伝之者、明石二郎■九郎へ可相渡事
         |
         |   (三淵好重室・三斎女栗)
恵光院ノ家来ヲ誅 | 一、恵光院殿内者埒明之書物、式ア殿ゟ持せ被差上候、則、此上は御誅伐へキとの御相談、相談究
伐        |   候也
         |
明寰長崎留主中扶 | 一、明寰さつまへ参ニ付、長崎留主ノふちかた、■七月分ヨリおさへおき候を、可遣哉、我等共分別
持ノ処理     |        (国遠)   
         |   次第ノ由、道倫被申事
         |
         |   ふれ状したゝめ、小頭
外様弓鉄炮足軽用 | 一、外様御弓・御鉄炮、七百十三人ノなた弐百三十七丁・かま四百七十六丁、出来候間、頭衆へ、請け
ノ鉈鎌完成    |   取扱申候へとのふれ状候事
         |                                (入江)
長崎へ明寰同道ノ | 一、長崎へ、明寰ニ付候て、被参御歩之衆、岡文右衛門尉と申仁也、入三丞与也
歩侍       |
         |                              芦田与兵衛与  西沢文右衛門与  冨嶋猪兵衛与
下着ノ鉄炮足軽  | 一、三宅勘三郎・小崎新五郎、今日着船、両人ニ付下候御鉄炮衆、古沢少兵衛・小右衛門・勘左衛門・   
         |   金左衛門与  吉衛門与  源左衛門与  八左衛門与  将監与  平左衛門与  作左衛門与
         |   作左衛門・左兵衛・六右衛門・吉右衛門・六兵衛・猪右衛門・左右衛門、以上十人也
         |
三斎供ノ鉄炮足軽 | 一、是■は 三斎様御供之御鉄炮衆之由也
         |
志井村ノ父子ヲ質 | 一、しい村ノ新左衛門、おや子共ニ、今晩、御しちへやゟ出シ申候事
部屋ヨリ出ス   |                    こちらは罪にはならず放免されたか?
         |
         |
         |      七月廿一日 晴天 
         |                                 清原
長崎ヘノ使帰着  | 一、長崎ヘ之御使、国友半右衛門くミ原新右衛門尉・寺本八左衛門くミ■原権右衛門尉、巳ノ刻罷帰
         |   候
         |
伊田村ノ牛盗人新 | 一、田川郡伊田村之牛盗人善三郎、新籠へ今晩入候事、付、小二郎手前せんさく吟味被相究、書物被上
籠へ入ル     |   候へと、御郡奉行衆へ申渡候、彼牛盗人書物、うつし候て遣候也
         |
         |        (細川藤孝室、沼田光兼女)元和四年七月廿六日死去・75歳   
光寿院ノ法事惣奉 | 一、来ル廿六日、光寿院殿御吊惣奉行申付事
行        |
         |
         |      七月廿二日 曇 亥刻ゟ雨フル  
         |
下毛郡上り薮帳  | 一、下毛郡上り薮帳ヲおそく出シ候、過怠員数申定事
         |
本庄某ノ財産   | 一、本庄長五郎財宝ノ事
         |           (米田是門)米田是政の弟550石、寛永九年没・62歳
家老等惣談    | 一、御年寄衆御惣談有、與右ハ煩ニて、不被出候也
         |
供侍ノ帰着    | 一、御供衆被罷下候日限、出船之日限書立付仕候て、御年寄衆へ相渡申候事
         |
         |
         |      七月廿三日 曇 雨フル、昼ゟ止  
         |
草取奉行ヲ十郡へ | 一、草取ノ御奉行、富田十太与ノ御弓衆十人、十郡へ、明日未明ゟ披出候へと、申渡候也
派ス       |
竹津出シニツキ駄 | 一、中津郡ノ切置竹、津出之事ニ付、御郡奉行衆へふれ状遣候、竹かい主より、駄ちんヲ馬かたニ可遣
賃        |   と申ニ付、如此候也
         |
         | 一、採銅所御金山へ横衆、八郎右衛門くミ十七人ヲ、弐かわりニ遣候、明日未明ゟ披出候へと、申渡
         |   也
         |
         |        氷糖  百斤ニ付、七拾目也
砂糖ノ値     | 一、沙糖ノ直 白潔糖 百斤ニ付、六拾目也
         |        雪白糖 百斤ニ付、四五匁也              

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■講談社『メチエ・メール』から

2019-06-15 06:09:46 | 書籍・読書

                       

 登録している講談社の『メチエ・メール』Vol.168 が贈られてきて、今月の新刊を紹介してくれている。
今月気になっているのがこの本だが、次の様にあった。

      「スタンダード」とは本来は標準語のことである。しかし、「標準語」というと、たいていは、明治以降の「標準語」を
      思い浮かべるだろう。現在、アナウンサーがしゃべっている言葉、東京山の手の言葉などと言われるあの言葉だ。
      ところが、本書では、江戸期以来、一貫して「話し言葉の標準形態」つまり「標準語」があったと考えている。
      これを、一般にイメージされる「標準語」と区別して「標準形(ルビ:スタンダード)」と呼ぼう。
      書き言葉にも、標準形があった。これも、歴史をたどれば、室町時代までさかのぼる。
      書き言葉を書く際の表記にも、標準形はあった。
      これも、明治維新と供に成立したものではない。いわゆる、仮名遣いの問題である。
      時折言われるように、歴史的仮名遣いは正しいのだろうか。
      いや、江戸期には、もっと多様で柔軟な表記を許すスタンダードがあった。
      このようにして、「スタンダード」と言うことを軸として、本書は話し言葉、書き言葉、仮名遣いの歴史に分け入っていく。
      豊饒な言葉の世界を堪能してください。 【試し読みができます!】→ こちらから

 試し読みをしてみると面白そう。今日は史談会の例会で外出するので、帰りに蔦屋によってみよう。ほやほやの新刊在庫は在るかしら?

                               追記:購入いたしました。面白そうです。 19:52記

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