津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■軍役 235人/1万石

2019-06-14 07:17:45 | 歴史

 江戸時代の軍役とは、「御恩に対する奉公として、武士が主君に対して負う軍事上の義務」(近世史用語辞典)である。
何度か改められているが、幕府に対する軍役は1万石に対し235人と定められた。      万石
細川家は実質は75万石だとされるが、通常称される54万石(表高)が軍役を伴う禄高である。54×235人=12,690人となる。

勉強不足で疑問に思うのは、隠居後の三齋公のように、いわゆる「無役」という「軍役を伴わない禄」が多くある。
また豊前時代においては細川家の子女に対するものが15,500石余あったという事が「於豊前小倉侍帳」に記されている。
寺社などに対する寄進分を含めると相当の軍役を伴わない禄=無役が存在している。
しかし軍役は知行全体にかけられるものだから、これらの「無役」分はどこかで補わなければならない。
「兵站」も当然ながらこれらの人数に加えられるのだろうが、その一端を窺わせる次の論考が興味深い。
       第一次長州征討にみる熊本藩の兵站 
軍役の具体的な調達がどのように行われたのか、まだ知りえないでいる。

 各家ではその禄高に対しての軍役の人数が定められている。例えば300石取の家であれば7人ほどを出さなければならない。
また鑓持ち、馬の口引き、挟み箱持ち、鎧箱持ち其の他をを率いることが定められていた。
大身になるとその人数を確保するためには、親子兄弟や雇人のほか、知行地から人をかき集めたりしている。
戦場で親子共に戦死などという記述に出くわすのは、このような事も原因であろう。
ご恩に対する奉公は、「否」はありえない。それは「死」に直結している。一方高名を上げれば一躍大身になることさえある。
不謹慎な表現だが戦は侍にとって又とない出世のチャンスである。家中の者ではない浪人たちが、知る辺をたより人数に加わり、高名を上げて取り立てられたり、戦場に屍をさらしたり悲喜こもごもである。
先祖附などを見ても出陣の記録はあるものの、軍役における記述などは一切見受けられない。
これは残念なことである。

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■元和九年・覚書(七月七日~七月十三日)

2019-06-14 06:10:00 | 細川小倉藩

         |      七月七日 晴天
         |
         | 一、松岡藤八郎被成 御下ニ付、御鉄炮小頭荒瀬八右衛門尉・御弓之小頭吉井甚兵衛ヲ被成 御添、
         |   被成 御下候、竹屋喜兵衛ニ付上せ候御鉄炮壱人、江戸罷上ル鉄炮衆九人、御長柄衆一人、合十
         |   一人罷下候、此便ニ次太夫御奉行所へ之 御書壱つ、奉書弐ツ参候よし事、又、奥へノ 御書壱
         |   つ、安斎六兵衛所へノ 御書壱つ参候
                                           少々特別扱い気味の書き用だが、細川家召し出し直前か。(下にも記事有)
                                                      馬廻組三番・百五十石(於豊前小倉御侍帳)の記録が残り「肥後御入国宿割帳」
                                                    にも記録がある。その後の消息は判明しない。何人なのか判然としない。

         |            (米田是門)
家老等惣談    | 一、御年寄衆御惣談アリ、與右ハ煩ニて、不被出候也
         |
         | 一、しい村惣右衛門ニ、水くれ候事
         |
         |
         |      七月八日 晴天
         

         
| 一、松岡藤八郎そはニ壱人不付置、不自由候間、ちいさきそうり取壱人そはニおき候やうニと、久左

         |   衛門理被申候間、十一、二成久蔵と申もの壱人、今日ゟ付置被申候へと、少介へ切手遣候事
         |
         |   安場仁左衛門へ申渡候事
塗笠ノ手間賃   | 一、ぬしや七左衛門、ぬりかさノ手間ちん相究候へと、可申付事
         |
         |   嶋又左衛門・神西與三右エ門、御奉行ニ申渡候事
泰勝院施餓鬼奉行 | 一、泰勝院ニ而、盆之おせかき御奉行之事
         |
         |   金森将監御使ニ申渡候事
中津へ蓮飯進上ノ | 一、中津へはすの御めし持参被成御使ノ事
使者       |
         |   石垣損候様子、沢村弥左衛門尉見届之事                     (松井興長)(小笠原長元)
舟入ノ橋床ノ石垣 | 一、御船入ノ橋床之石垣損候所、つきなおし候やうニ被仰付候へと、式ア殿・民ア殿へ申入候事
ノ築直シ     |
代官等ノ口米   | 一、御代官衆二ノ口米之儀、御算用相済候衆へ、三ケ二可相渡との、御郡奉行中へ触状廻候事
         |
         |            名越           この時期三齋は江戸から京都に上っている、洛京の吉田屋敷か
伊藤金左組ノ小頭 | 一、伊藤金左衛門組小頭権左衛門尉儀二付、吉田ゟ奉書参着候て、則刻、籠者申付候事、
入牢       |   (朽木昭和)
         | 一、三渕與三郎殿使者ニ、大学殿・利斎へ之 御書壱つ、井上宗和への 御書壱つ、又御奉行衆ゟ       
         |   金左衛門組権左衛門被 仰出奉書壱つ、今日酉ノ下刻ニ、與七郎殿ゟ披相届、則時ニ、利斎へノ
         |                              (井門重元)    (  ママ   )
         |    御書相届候、宗和へ之 御書ハ明ル九日未明ニ、採銅所へ亀右衛門組御鉄炮    遣候事、
         |
         |
         |      七月九日 晴天     ひる程ニ少雨フル、地のしめる程も無之候  
              

朽木意斉上地分奉 |                 (財津)
公人ノ書付    | 一、朽木意斉上地分、奉公人之書付、財惣左衛門被上候事
         |
松ノ丸へ溜池ノ蓮 |   伊佐源七・平二郎へ当ル候て遣候事
葉ノ切手     | 一、松ノ丸様へ、はすの葉四百枚の切手、溜池ニて進之事
         |
泰勝院ノ施餓鬼ノ |   同日
幡ノ用紙染色ノ奉 | 一、泰勝院、せがきノはたかミ染申御奉行、村越覚兵衛へ申付候事、中折紙六百枚相渡候也
行        |
         |   明、さしかミ、御かい物奉行衆へ相渡候
買物奉行へ毎日交 | 一、御かい物奉行、毎日壱人つゝかわり/\ニ、山路左助所ニ被居候へとのさしかミ遣事
替検分ノ命    |
         |
         |      七月十日 晴天    
小篠次太夫中津へ |

見舞い      | 一、次太夫、未明ゟ、中津へ御見舞ニ被参候事
         
金具屋死去    | 一、かな具屋喜右衛門尉、七月二日ニ相果候事由、安場仁左衛門被申候事
         |
長柄足軽三十人  |   山口半次・瀬崎左助両人ニ申付候也、さう地仕候者ハ、御長柄衆三十人、明日十一日ノ未明ゟ、出し候へと申候
泰勝院境外ノ掃除 |
奉行       |
         |      七月十一日 晴天 申ノ刻夕立仕候
採銅所金山ノ秤完 

成        | 一、採銅所御金山ノ秤出来仕候て、則、御鉄炮衆冨嶋猪兵衛くミ里右衛門ニ持せ遣候事
         |                                          (林)
中嶋ノ跳橋石垣ノ | 一、中嶋へノはね橋、石垣をなをし候ヘハ、橋之材木取ニ遣人、御船手ノ四十八人ニ、手伝弥五左衛
修築ノ用材運搬    |     (河田)   
         |   門・八右衛門尉ニ可相渡由、被申事
         |
青貝師休徳へノ貸 |   壱石五斗かし申候、左候て、元利取立、御切米ノ高ノあまり申候へ共、此者は余人とかわり申候故、如此
米        | 一、青貝師休徳ニ御かし米事
         |     (友好)
松井友好知行所ノ | 一、松井宇右衛門知行所ノ出入之書物、双方ともニ御郡奉行へ被着候へと申、返し可申事
人ノ出入書物   |   寛永10年沢村大学吉重の養子となる
         |
         |      七月十二日 晴天 申ノ刻ニ夕立フル、頓而晴ル
         | (松井興長)(有吉立貴)(村上景広)
         |   式ア殿・平吉殿・八郎左衛門殿へ申触候也
秀林院へ金屏風  | 一、秀林院へ金屏風三双遣申事
         |   ガラシャ夫人墓所
         |   茂左衛門ニ相渡也
         | 一、井上加兵衛書物ノ事
         |                   (異筆)
福建省泉州ノ唐船 | 一、福建ノ泉州ノ船、酉ノ刻ニ着仕ル、「船頭林二官 客許一官 夥長陳七官」
到着       |
         |
         |      七月十三日 晴天 未ノ刻ニ雨フル、亥刻ニ晴ル
         |           
洛京の吉田屋敷か                      (ママ)
唐船着岸ノ注進  | 一、唐船着候注進ニ、吉田ヘノ御使御小早、則、御舟頭原茂助参候、長埼ヘハ御鉄炮衆
         |

 



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