江戸時代の軍役とは、「御恩に対する奉公として、武士が主君に対して負う軍事上の義務」(近世史用語辞典)である。
何度か改められているが、幕府に対する軍役は1万石に対し235人と定められた。 万石
細川家は実質は75万石だとされるが、通常称される54万石(表高)が軍役を伴う禄高である。54×235人=12,690人となる。
勉強不足で疑問に思うのは、隠居後の三齋公のように、いわゆる「無役」という「軍役を伴わない禄」が多くある。
また豊前時代においては細川家の子女に対するものが15,500石余あったという事が「於豊前小倉侍帳」に記されている。
寺社などに対する寄進分を含めると相当の軍役を伴わない禄=無役が存在している。
しかし軍役は知行全体にかけられるものだから、これらの「無役」分はどこかで補わなければならない。
「兵站」も当然ながらこれらの人数に加えられるのだろうが、その一端を窺わせる次の論考が興味深い。
第一次長州征討にみる熊本藩の兵站
軍役の具体的な調達がどのように行われたのか、まだ知りえないでいる。
各家ではその禄高に対しての軍役の人数が定められている。例えば300石取の家であれば7人ほどを出さなければならない。
また鑓持ち、馬の口引き、挟み箱持ち、鎧箱持ち其の他をを率いることが定められていた。
大身になるとその人数を確保するためには、親子兄弟や雇人のほか、知行地から人をかき集めたりしている。
戦場で親子共に戦死などという記述に出くわすのは、このような事も原因であろう。
ご恩に対する奉公は、「否」はありえない。それは「死」に直結している。一方高名を上げれば一躍大身になることさえある。
不謹慎な表現だが戦は侍にとって又とない出世のチャンスである。家中の者ではない浪人たちが、知る辺をたより人数に加わり、高名を上げて取り立てられたり、戦場に屍をさらしたり悲喜こもごもである。
先祖附などを見ても出陣の記録はあるものの、軍役における記述などは一切見受けられない。
これは残念なことである。